愛情を態度で示す

 中学校のスクールカウンセラーの仕事を始めて3年になります。
 その間、公立・私立を合わせ、4つの学校にお世話になりました。

 学校により若干の違いはありますが、私の場合、不登校傾向で適応指導教室に通う子どもたちや、保健室など別室登校の子どもたちの相談やサポートをすることが、業務の半分以上を占めています。

 中には中学校卒業後もメールのやりとりをしている子が何人かいます。
 友達の事や学校のことなど、いろいろな相談にも応じています。

 別室登校の子どもたちは、誰にも気づかれないようにたいてい朝少し遅れて登校し、5,6時間目の終わり頃か、あるいは放課後校内に人がいなくなる時間にそっと帰っていきます。会議室など空き部屋で自習をしている時も、人の足音が聞こえただけでそわそわする子もいるし、外から部屋の中が見えないようにカーテンを閉めたがる子もいます。

 別室とはいえ、彼らは常に周囲を伺いながらひっそりと過ごしています。普段はおしゃべりでにぎやかな子でも、学校という場所では常にどこか張りつめていて、苦手な子や知らない人が部屋に入ると表情がさっと硬くなり黙ってしまうのです。

 別室登校の子どもたちの多くは、学校に行かないと親に怒られるので何とか学校へは来るけれど、どうしても教室にいられないので、最善策として別室で過ごしていると言います。中には無理矢理に連れてこられる子もいるし、体調が悪くても休ませてもらえない子、休むと父親に殴られる子もいました。家庭に居場所がなく、教室にもいられない、そんな彼らにとっては、保健室や空き教室の狭い空間は緊急避難場所のような役割を果たしているのです。

 私はこれまで彼らと個人的に、あるいはグループで接してきました。悩みや相談事があれば個別に話を聞くこともありましたが、半分以上は日常のできごとや趣味など普通なら友達や親に話すような内容のことを、毎週毎週聞いていました。音楽、本、アニメ、そして最近のドラマなど、好きな事を話している時の子どもたちは楽しそうで、話したりなさそうにしていることもありました。別室登校の子どもたち同士が、学年を越えて仲良くなることもありました。

 そのような子どもたちの状態を理解している教師もいるし、そうでない人もいます。教室に行けないことを単なるわがままと考えている大人も決して少なくありません。実際無理に行こうとすると、息苦しくなったり気分が悪くなることもありますが、彼らはなぜそうなるのか理由は分からないのです。

 最近ある中学校の総合学習の時間に、海外で人道支援をしている活動家を招いての講演会が行われました。全校生徒が体育館に集まり、2時間近く貧しい国の人々の現状や社会情勢についての話を聞きました。

 その中学校には別室登校の子どもたちが5人ほどいて、彼らもしぶしぶ一番後ろの列に座ってじっとしていました。そのうちの4人は、1時間ほど経った頃に気分が悪くなったりしんどくなって、自習室に戻ってきました。その時私は自習室に待機していたのですが、戻ってきた彼らは疲れ切った顔をしていて、私が「よくがんばったね」というと、「ああ、しんどかった〜」としばらく机にうつぶせたまま動こうとしませんでした。

 そのすぐ後、一人の先生が「いい話だから最後まで聞いてほしいのだけど」と子どもたちを呼びもどしに、自習室にやってきました。私は「気分が悪いと言っていましたし、朝から体調が悪い子もいるので」と、遠回しに言うと残念そうにその場を去っていきました。静かになった部屋で、ぐったりしている子どもたちに大丈夫?と声をかけていたら、隣に座っていた子が突然私の手をぎゅっと握りしめ、目にうっすらと涙を浮かべていました。本当は人が大勢いるところにいたくないのを、ぎりぎりまでがまんしたんだな…と感じました。

 その時ふと思いました。
 確かに、世の中には本当に貧しい国で、厳しい環境の中で生きている人たちがいるという事実を知ることも大切だし、そのような人たちに支援をすることも尊いことなのですが、その話を黙って聞いていた子どもたちの中には、物質面では恵まれていても、孤独や絶望に悩み、愛情面では決して満たされていない子が確かにいるのです。
そのことに、どれくらいの大人が気づいているのだろうか…と。

 自分は生きる価値がない、いなくてもいい存在だと考えている子どもたちも少なくありません。自分を傷つける子、殻に閉じこもる子もたくさんいます。

 彼らにもまた、援助の手が必要です。
 彼らを理解しそのままを受け入れることのできる大人の存在が必要です。

 ほんの少しの時間でも、彼らに寄り添い話を聞き、「そうなんだ」「よかったね」「よくがんばったね」などと声をかけてあげられるなら、そしてそんな日常の何気ないやりとりを、愛情を込めて続けるなら、子どもたちはもっと自分を好きになれるかもしれません。

 子どもたちが不安なとき、少しの間そばにいてあげるだけでいいのです。手を差し出されたら握ってあげればいいし、「大丈夫よ」とひとこと言ってもいい。そんなちょっとした関わりからでも愛情は十分に伝わり、その積み重ねがいつか大きな違いを生むのです。

 そのような小さくても大切な経験をあまりしたことのない子どもたちが多いのは、とても悲しいことのように感じます。

 大人の立場からすると、確かに生活を維持するのに精一杯で、他にも考えることがたくさんあって子どもたちの事にまで気持ちが向かない時もあるとは思います。しかしどんな小さなことでもいいから、子どもたちを心から愛し、その気持ちを素直に態度で示すことのできる大人たちがもっと増えてくれないだろうかと願う次第です。 

  

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花が教えてくれる、大切なこと

 2日経って、やっと考えがまとまりました。
次に控えている記事もあるので、先をすすめます。 

 チューリップの例えは、初めは5,6歳くらいの年齢の子どもに認知の働きを分かりやすく教えるために考案したものです。発達上、自分と他人の気持ちや立場が本当に理解できるようになるのは9歳前後ですが、小学校に上がる少し前くらいから、未熟ながらも自他の区別がつくようになり、自分の気持ちを言葉で表現する能力が発達していくので、分かりやすい説明ができれば、自分の気持ちがどういう風に働くのかを少しは理解することができるのです。

 しかし実際には、親子関係に問題を抱える大人にこのたとえ話を使っています。主に1歳~3歳くらいの子どもを持つお母さん向けに、です。

 乳幼児健診の子育て相談にかり出されるようになって、「ご飯を食べない(激しい偏食がある)」「一時もじっとしていない」「夜眠ってくれない」…といった、子育ての様々な悩みを聞いています。もちろん、その中には確かに多動や自閉傾向が疑われる子どもも、40人に1人くらいの割合で見つかりますが、発達上の問題というよりは、お母さんの受け止め方に多少問題がありそうだなというケースがほとんどです。

 一言で言うと、ゆとりがない人が多いなと感じます。例えば言葉の発達が遅れている、と相談に来られたお母さんに、普段家で子どもとどういう過ごし方をしているのかと尋ねると、子どもの好きなビデオを何度も繰り返し見せています、と答えます。そこで、「ビデオを見せている時、お母さんは何をしていますか」と聞くと、「ビデオを見ている間はじっとおとなしくしてくれているので、その間に家のことをします」

 子どもと一緒に遊んだり出かけないのですか?と尋ねると、「子どもとどう遊んでいいのか分かりません」…それでは、と「子どもに話しかける時間は、一日の中でどのくらいありますか?」と尋ねると、「さあ、あまり話していませんね」

 子どもの事をどうしてもかわいいと思えない、という相談も、何度か受けました。「子どもが泣くと、イライラしてたたいてしまうんです」、とあるお母さんが私に話すので、「イライラしないようにするには、何が必要だと思いますか?」と尋ねると、「子どもが機嫌が良ければ、別にイライラしません」

 いや…そうじゃなくて、”泣いてもイライラしないようにするにはどうすればいいですか”、と言いたかったんですが、と話すと、お母さんは「とにかく子どもを泣かさないようにすればイライラしないですよね」

 最初の例は、子どもに十分な言葉かけを普段からしていないにもかかわらず、子どもの言葉が遅れているのは何か子どもに問題があるのではないか、と相談にきたお母さんの言い分ですが、それはちょうど、必要な養分をあまり与えていないのに、チューリップがうまく育たない、咲き具合がいまいちだと言っているようなものです。

 次の例は、子どもさえ泣かなければイライラしない、と思っているお母さんのことですが、子どもは理由があって泣いているのであって、何で泣いているのかをあまり考えずに泣くこと自体を非常にストレスと感じているととらえることができるでしょう。

 それはちょうど、チューリップの色や形など、何か気にいらないところがあってイライラしているのに、それはチューリップに問題があるからだと言っているようなものです。
 
 こういう例に限らず、実に多くの人が、自分以外のものを、自分の都合のいいように動かそうとしているように感じます。それはちょうど、チューリップに、「自分が咲いて欲しいときに、自分が望むように咲いてくれ」と言っているようなものです。 

 チューリップは時期が来ないと咲きませんし、チューリップとしてしか咲きません。私たちにできるのはせいぜい、ちょっと咲く時期をずらすとか、大きめの花を咲かせるとか、色のバリエーションを増やすことくらいです。もし期待するような結果が出なくても、それはチューリップのせいではありません。仮にチューリップのせいにした所で、何も得るものはありません。

 チューリップにも、個体差があります。同じプランターに同時に植えても、花が咲く時期は少しずつ違いますし、背丈も、花の色も、微妙に違います。しかし、その違いはとても些細なことでしかなく、花が咲いてくれればそれで十分だと思えれば、違いは全く問題にはなりません。

 ところが、実に多くの人がこの些細な違いにこだわり、まるで大きな問題のように捉えてしまっています。全体としては順調に成長しているのに、満足できない人が多いように思います。これもチューリップ(子ども)のせいではありません。時期が来るとちゃんとできるようになるのですが、そこまで待てないのでしょう。

 
 最後に、もう一つ別の見方をしてみましょう。

 前回も少し触れたように、チューリップが「私はチューリップでいるのはイヤだから、バラになりたい」と言うでしょうか。チューリップはチューリップとしてしか生きることはできませんし、受けた自然の恵みを享受しつつ、ただ静かに咲いているだけです。チューリップが他人に好かれたいとバラになろうとすることはできません。バラにならなければ愛されないということもありません。チューリップのままでも、この花を愛する人はたくさんいます。

 しかし多くの人が、自分以外のものになりたいと望み、自分ですら都合の良いように変えられないかと考えているように思います。どんなに他人に気に入られようとして自分以外のものになろうとしても、結局は自分自身としてしか生きることはできないのです。せめて私たちにできることは、精一杯生きることだけです。その姿を見て、愛情を感じる人がかならずいるはずです。自分を誰かの好みに変えようとするよりも自分の良いところを生かす方が、より豊かな人生を送れるのではないかと思います。


 

 
  

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トラウマは人を孤独にする

 「花はただ咲いているだけ」の次の記事を書こうと3日間奮闘したものの、うまくまとめることができずにいます。頭の中にはアイデアが断片的に浮かんでいても、それをつなげることができないんですね。

 6月の下旬に、看護学生さんたちに、「燃え尽き(バーンアウト)症候群」のビデオを見てもらいました。その中で取り上げられていたのがベテラン看護師さんの例で、一生懸命に仕事に打ち込んでいた人が、次第に疲弊しある朝とうとう起きられなくなり、仕事に対する興味も意欲も全くなくなってしまう、というストーリーでした。

 今の私は、かなりこれに近い状態です。今まで意欲的に取り組んでいたはずのカウンセリングという仕事が、多少重荷になってきています。朝目が覚めるとものすごい不安が襲ってきて、全身がだるく起きあがるのに時間を要します。

 それでも、仕事にはきちんと行っています。ケースの数を減らしてもゼロにすることはできません。今すぐに対応しなければならない人をのぞいては、少し待ってもらうようにお願いするのが今の私にできる精一杯のことかもしれません。

 私は今、2つのトラウマを抱えていて、完全にfull PTSD(つまり医学的にPTSDと診断できる状態)にあります。一つは配偶者にまつわること、もう一つは仕事上のことです。後者は、前者の連鎖反応として起こったことで、一応解決は見ているのですが、私の信念を揺さぶるようなショックを受けました。

 そうして、PTSDの二次的な問題として、うつ状態に陥っています。

 PTSDは、一般の人が考えているよりはるかに深刻な問題を引き起こします。トラウマのすべてがそうだというわけではありませんが、単にショックを受ける以上の衝撃的なできごとを体験すると、脳は機能不全の状態に陥ってしまうのです。

 思い出したくないのに、繰り返し思い出す、夢に見る、思い出すと感情も身体反応も全くそのときと同じ状態に戻ってしまうといった「侵入的再体験」、思い出させるような刺激に近寄らない「回避」、異常に用心深くなったり、音や刺激などの普通なら気にならないことにも敏感に反応し、不眠や不快な身体症状を示す「過覚醒症状」は、説明をすることも、理解することもそれほど難しくはありません。

 しかし、現実感がなくなり、周りの世界と自分が切り離されたような感覚になる、いわゆる「解離症状」は、なかなか説明が難しく、単にぼーっとしているだけ、と見られることが多いです。

 これがものすごく辛い症状であることを、想像できる人はそれほど多くないと思います。

 私自身を例に挙げると、近くのスーパーに買い物に行くために横断歩道を歩いていて、自分が歩いているという感覚がなく、周りにある信号や並木道、行き過ぎる通行人や走っている車といったものも現実感が全くなく別世界にいるような感覚になるのです。時々なぜ歩いているのかすら分からなくなることがあります。当然ながら、時間の感覚もあいまいになります。過去と未来と現在がつながらなくなるのです。

 またそばに人がいても、たとえその人が親しい人であっても、自分だけが切り離されてしまったような、人とのつながりがなくなってしまったように感じるのです。何をしていてもどこにいても、たとえようのない孤独感を感じてしまうのです。

 さらに人によっては、自分が外から自分を眺めているような感覚(離人感)が出てきます。

 解離症状にまで至らなくても、トラウマは人を孤独にします。ショッキングなできごとを体験してから最初の1週間〜10日くらいの間、人はできごとを積極的に話そうとします。体験から日が浅いこともあって、話を聞く方もある程度協力的になれるため、この時期にきちんと話を聞いてもらうことができ、安心感を持てれば回復は早いです。

 しかし10日をすぎると、人は逆に体験を話せなくなってしまうのです。話すことは否応にでもできごとについて思い出させてしまうからです。話せないけれどもまだいろんな気持ちを抱えている状態になるのです。できごとが起こってから時間がたつにつれ、その傾向は強まります。体験をした当事者以外の多くの人にとっては、できごとは時間とともに過去のこととして捉えられるので、当事者がまだトラウマによる様々な問題を抱えていることに対し、「過ぎた事は早く忘れなさい」「いつまでも引きずっていないで元気出して」などとつい励ましてしまいます。

 そういう一つ一つの言葉が、トラウマを抱える当事者をさらに傷つけ追いつめてしまうのです。誰も思い出したくて思い出すわけでも、好んで引きずっているわけでもありません。早く忘れたいし、前に進みたい気持ちは持っています。何故回復できないのか焦りも持っています。しかし、自分の体験や気持ちを話そうとするとうまく言葉にできなかったり、話すことで相手が不快感を抱いたり自分から離れていってしまうのではないかと不安になって、話したいことが言えなくなってしまうのです。

 PTSDにうつの合併する割合が高いのは、このような孤独感の存在も理由の一つだと思います。

 トラウマを抱え孤独を感じている人に必要なのは、「共感と保証」です。

 思い出したくない、まだいろんな気持ちを抱えているけど話せない、辛い気持ちでいることを理解し、そのままでいていいと保証することは、トラウマを抱える人に安心感を与えます。孤独感から抜け出せるかどうかは、安心して自分自身でいられる感覚を取り戻せるかにかかっています。

 仕事柄、他人のケアに力を注いできましたが、「辛いよね」の一言を一番必要としているのは、自分自身だったのかもしれません。


 

 

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花はただ咲いているだけ

 気力のないまま、週末に入りました。
仕事は必要最低限に抑えて、それ以外は家でぼんやりしていることが増えました。こころが枯れる、というのはこういうことなのかと思います。何をやっても全く楽しめない日々が続いています。

 おとといの夜、ふと考えました。

 チューリップの花を見て、きれいだなと感じる人もいるし、興味がなくて何も感じない人もいるでしょう。チューリップの花にまつわる良い思い出がある人にとっては、花を見ることは記憶とともに幸せ感や喜びといったよい気持ちを起こさせ、逆に悲しい思い出がある人にとっては、そのときと同じ気持ちを感じてしまうから見るのが辛いと思うかもしれません。また、別の人は嫌いだから見るのもいやだと感じるかもしれません。

 しかし、人が何をどう感じようと、チューリップの花はただ咲いているだけなのです。私たちはただ単に、花に自分の感情や思いを映し出しているにすぎません。

 それでは、チューリップとアザミの花は何が違うのでしょう。

 アザミはチューリップほどの見かけの美しさはありませんし、トゲもあります。チューリップは多くの人に愛される花であるのと対象的に、アザミを好きだという人は非常に少ないかもしれません。

 しかし、どちらもただ静かに咲いているだけなのです。しかもそれぞれ咲くにもっとも適した領域で咲いているにすぎません。チューリップがアザミに向かって、「あなたは嫌われ者だからここで咲いてはいけない」なんて言うことはありません。どんな花でも、たとえ毒があっても、自然の法則に基づいてここに存在しているのですから。

 人間は自分以外のものに、実にいろいろな感情や思いを投影しています。ある人が嫌いだというのは、本来はそういう感情や思考の産物、つまり主観にもとづく評価であって、実際の相手の状態とは無関係なことが多いです。同じ人物でも人によって評価が分かれるのは、その人のどこを見ているかにもよります。多くの場合、人間は限られたところしか見ずに、そのときの感情や思考で人を判断しているにすぎません。

 確かにあわない人、苦手な人はだれにでもいます。それでも、その人がそこに存在することを受け入れられるには、自分が相手に映し出している感情に気づかなければならないのです。多くの場合、相手の嫌いな部分は、実は自分自身の中にある受け入れがたい部分でもあるのです。相手のせいだと思っていることが、実は自分自身の問題であることに気づくことができれば、相手がたとえどう振る舞おうとそのために自分の感情に振り回されることなく、静かな気持ちで受け止められるようになるでしょう。

 私たちの周りでは、時々予期しない、あまり起こってほしくないできごとが起こります。しかし本当はできごとはあくまでも中立であって、起こってほしくないというのは単に私たちの思いを反映しているだけです。できごとをどうとらえ感じるかによって、その後の行動もそこから受け取る結果も全く違ったものになります。「こんなことが起こらなかった方がよかった」と思うのか、あるいは「こういうできごとがあったからこそ今の自分があるのだ」と思うのか、その違いはできごとの中身にではなく、それを体験する人間の受け止め方の違いなのです。

 最後に、チューリップもアザミも、好きか嫌いかではなくただ限られた命を精一杯咲いているだけです。

 人間も生まれるときから自分を嫌いな人はいません。それは生まれてから今までのどこかで身に付いた考えにすぎません。またすべての人に好かれる必要もありません。与えられた命の中で、できることを淡々と続けていきながら、美しいものを美しいと感じ、善いものを素直に受け入れるこころを育てていくことが、一番大切なことではないかと思います。

 なぜこういうお話をするのか…は次の記事で。


 
 

 

 

 

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支配・統制・特権意識

 昨日の夜、身体じゅうが痛みあまり眠れませんでした。
  目が覚めたときに思いついたアイデアを、是非記事にしなければ、と久しぶりに早朝からパソコンに向かっています。

 aikidonotatujinさんのコメントにお答えする形で、私は加害者の心理について若干触れておきたいと思います。そのことが、DVや虐待の背後にある心の問題を理解するのに役立つようにと願います。

 バンクロフトらが前述の「DVにさらされる子どもたち」の中で加害者像について非常に示唆に富む論文を書いていますので、ご興味のある方はぜひお読み下さい。私はその中からの抜粋と、私が虐待やDV被害者の支援をやっている中で気付いたことをここに書いておきたいと思います。

 多くの虐待・DV加害者は、そのような行為を行うとは思えないほど、一見穏やかであったり、善良な市民に見えます。中には、民生委員や教師など、社会的には人を援助する仕事をしている人さえいます。

 私が以前に会ったDV加害者は、非常に線の細い、大げさなほど他人に気遣いを示す人でした。この人を知る多くの人が、彼が自分の妻を日常的に虐待しているとは信じられないというのもなるほどと思えるほど、一見腰が低く、まじめそうに見えました。

 しかし、私は彼の何気ない言動の中に、加害者としての根の深い問題を見て取ることができました。結局周囲の説得や支援にもかかわらず、彼は最後までDVをやめることができずに家庭も仕事も失いました。

 虐待やDVの加害者に共通する心理的な特徴は3つあります。

 一つは「他人を支配(コントロール)することで自分の中の満たされないものを満たそうとする」ことです。虐待もDVも一種のパワーゲームであり、自分より力の弱い人を力で支配しようとする行為です。力というのは必ずしも腕力という意味ではなく、経済力、権力など様々な意味合いが含まれます。

 多くの加害者は、日常生活の大部分においてつねに他人との比較や競争の中で生きようとしています。そして彼らは、非常に根強い劣等感、自己不全感を持っていて、それを絶対に他人に知られてはならないと考えています。他人に対し軽蔑されたり無視されるのではないかという不安を常に抱え、それらを他人を思い通りにすることで解消しようとするときに、虐待やDVが起こるのです。

 このような支配欲が満たされる瞬間、ちょうど飲酒やギャンブルと同じように脳の報酬システムが働き、一時的に様々な不安や問題から解放されたような快感と、自分が何者にでもなれるような万能感すら抱きます。そして身体的・心理的・性的・経済的な暴力は、非常に手っ取り早く支配欲を満たす道具として、まるで麻薬のような効果をもたらします。精神的に未熟な人間ほど、このような方法への依存度が高いです。なぜなら、そのような快感は長続きせず、過ぎ去れば逆に不安を高めるからです。

 加害者が虐待する対象を手放そうとしないのは、ちょうどアルコールや麻薬を手放せないのと似ています。しかしDVに限っては、加害者が別の対象者を見つけることでパートナーをあっさり手放すことがあります。

 2つめの特徴は、「独特の被害者意識」です。

 不思議なことに、多くの加害者は他人が自分を脅かそうとしているという不安や思いこみを持っています。そしてそのような脅威から自分を守るために暴力という手段を使うのは当然のこと、という考え方を持っています。この被害者意識は独特のもので、実際にはほとんど根拠がない、まるで妄想のようなものです。しかし彼らにとっては、自分の権利や安全が脅かされる前に手を打ったに過ぎないと考えてしまいます。

 なぜこのような心理状態になってしまうのか、それは彼らが「自分自身の中に問題を見いだせない」からです。子どもやパートナーが言うことを聞かないから悪い、相手が自分を怒らせた…などと、原因が常に自分の外にあると思っていて、自分のほうが被害者なんだと言い張る人たちです。そして、この被害者意識が普通でない事に気付くか気付かないかが、矯正できるかできないかの分かれ目とも言えます。

 暴力というのは彼らにとってはmastery(統制)の手段であると同時に、彼らの被害者意識を和らげてくれるものであり、だからこそ彼らはそれにしがみつこうとします。

 3つ目の特徴は「特権意識」です。
 バンクロフトは、彼らは自分たちが他人を支配することを特別に許されている人間であるという特権意識がある、と述べています。極端な例としては、一部の聖職者が行っていた性的虐待が挙げられますが、個人的には、日常見られるのは「自分たちが何をしても被害者が許してくれる、許すべきである」という思いこみではないかと思っています。だから、被害者が彼らを離れることは彼らにとっては裏切り行為のように感じてしまい、2番目の特徴もあって、被害者を激しく責めることがあります。

 この「特権意識」は全く論理的ではありませんが、彼らの劣等感や不安を軽減し、彼らの行為を正当化するには不可欠なものだと考えられます。

 …ここまでお読みになられた方はお気づきだと思いますが…つまり加害者の特性として「自分の都合のいいようにしか考えることができず、自分自身を振り返る能力に欠けた人たちである」ということが言えます。そういう人たちの矯正は確かに難しいと言わざるを得ませんが、それでも全くできないというわけではありません。


 最後に、一部の読者の方には多少辛い事実について触れなければなりません。

 加害者でアスペルガー症候群、あるいはアスペルガー傾向を持つ人は、そうでない人に比べると若干割合が高く、通常の矯正方法では対応が極めて難しいです。

 次の記事で触れる「社会性の障害」にも含まれますが、アスペルガー症候群の中には、極めて感情コントロールが困難で、僅かな刺激に対し感情を爆発させるグループがあります。このグループに属する人で、障害が軽度で発見が遅れ、子どもの頃にネグレクトあるいは長期にわたるいじめを受け十分な対応がなされないまま成長し、適切な社会的行動を身につける機会が乏しかった、などといった一定の条件を満たしている場合に、虐待やDVの加害者となる確率が高くなるといわれています。

 しかも、彼らは自分自身の内面を見つめる能力(内省力)が育たないまま成人しているため、内省型の矯正方法では対応することができません。極めて厳格に構造化・体系化された方法で、「結果から学ぶ」という手法を忍耐強くつづけるしかないのです。

 アスペルガー症候群を持つ加害者の多くは、医学的にも人格障害、双極性障害(そううつ病)のような様々な診断名が付けられることがありますが、それらはほとんど意味を持ちません。彼らの反社会的な行為に真剣に対応しようとする専門家がほとんどいない現状では、病院でも治療拒否されたり、難しい患者さんとみなされたらい回しにされることもあるようです。

 多くのケースは確かに障害の発見が遅いため、分かったところでどうすることもできないのではないかと感じることがよくあります。彼らに同情することはありませんが、他人の注意関心を引こうと必死になり、分かってもらえないとあばれたり暴力をふるう彼らの姿を、痛々しく思います。


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言ってはいけない言葉

 3日間の通訳の仕事は無事に終わりました。
 思ったよりエネルギーを消費していたなと今更実感しています。
 英語を日本語に直すのはそうでもありませんが、トレーニングの中で日本人の言葉を英語に訳してインストラクターに伝えるのが大変でした。

 直訳すると意味不明な言語になってしまうため、言葉の微妙な意味まで考えながら適切な単語を選ぶというのは思ったより難しかったです。いい勉強になりました。

 現在仕事は夏休み中(研修期間として)ですが、大学へは行かなければなりません。後輩の論文指導とスーパービジョン、学会発表の指導とやることが山のようにあります。発達障害の記事の更新は、今週末までお待ち下さい。

 1年前から、夫がアルコール依存症で頻繁に暴力を繰り返し、現在離婚調停中の女性の支援をしています。(注:差し障りのあるところは変えてあります)夫はほとんど仕事をしておらず、女性の収入がないと生活できない状況です。女性は何度か家を出たのですが、そのたびに連れ戻されていました。

 女性は病院の紹介で公的機関へ相談に行き、最終的に離婚の申し立てをしましたが、夫は健康上の理由(といっても明らかに飲み過ぎによる肝障害)を盾になかなか話し合いに応じず、調停は大変難航しています。夫は病院に行くことも、依存症の治療をすることも拒否していて、体調が悪いというのを一つの切り札にしているのです。

 女性の受けた暴力は腕を骨折するほどのもので、暴言暴力は日常化していました。女性は現在は接近禁止令の保護のもと、別居にふみきり裁判が終わるのを待っているところです。私も、また関わった相談員も弁護士も、女性の治療をしている医師も、皆彼女が家を離れることが望ましいと初めから考えていたし、また女性が心身共に一日も早く落ち着いて安心して生活できることを望んでいます。

 最近その女性の夫の世話人と名乗る男性から、私に電話がかかってきました。

 夫の両親はすでに他界しており、彼の親戚に当たる人が面倒を見ているらしい、ということは知っていました。どこから聞いたのか、私がその女性のカウンセリングをしていることを知り、ぜひ話したいことがあると言うのです。

 私は直接会うことはできないので、電話で構わないなら、と返事しました。

 するとその世話人と名乗る男性(Aさん)は、女性の夫(Y氏)の体調が悪く、一人暮らしが相当こたえているので女性(Nさん)に家に戻るように説得してもらえないか、と私に告げました。

 私は接近禁止令が出ている事を説明し、もしそうでなかったとしてもその申し出には応じられないとはっきり言いました。

 その男性は少しむっとした様子で、

Aさん:「近寄っちゃいけないと言われたって、本人は今具合が悪くて近寄れる状態じゃないんですよ。Nさんだって15年も一緒にいたんだから、Yさんが具合が悪くて帰ってきて欲しいと分かったら、帰ってくるんじゃないんですか」
Sana:「だから、法的にYさんがNさんに近づくことができないんです」
Aさん:「私の知り合いにね、Yさんよりもっとひどい暴力を奥さんにふるっていた人がいるんですけどね、そこの奥さんはダンナを一生懸命に支えてね…愛情を持って接すれば必ず本人が変わるって信じていたんですよ。それでダンナも少しはお酒を控えて、前よりは大分暴力をふるわないようになったんですよ。」

 普段私は(仕事上は)滅多に怒ることはありませんが、この言葉を聞いてぶちっとキレてしまいました。

Sana:「Nさんが帰ってくれば、Yさんの具合が良くなる、とおっしゃるのですか」
Aさん:「そうは言わないけど、Yさんは心のどこかでNさんに帰ってきて欲しいと思っているから、それを私が代弁しているだけですよ」
Sana:「おっしゃることは理解できますが、私がNさんに伝えてそれでNさんが帰らないと言ったらどうなるのでしょうか」
Aさん:「そこは先生からうまく伝えて下さいよ。”愛情があればどんなことでも乗り越えられないことはない”とか、言い方はいろいろあるでしょう。」

 何言ってんだよこのオヤジ…と内心ぐつぐつと煮えたぎりながら、

Sana:「今愛情とおっしゃいましたが、それ以前に家庭が安心できる場所でないから、Nさんは家を出たのではないのですか。Yさんの事を責めるつもりは全くありませんが、Yさんがお酒を飲んで暴力をふるったことが、度々家族の安全を脅かしてきたことは事実なのではないでしょうか。」

 Aさんはしばらく黙っていましたが、

Aさん:「それは…でもですね、Nさんが仕事をすることをYさんはずっと許してきたわけだし、さっきの知り合いなんて、奥さんに仕事もさせなかったんだから。Nさんだって(注:Nさんは公務員)Yさんのおかけで仕事を続けられたわけでしょ。Yさんが今困っているんだから助けるのが当然でしょ。こんなときに裁判だ何だって言わないで、ちゃんと2人で納得いくまで話し合えば解決できるんじゃないんですか。」

 話し合いができるならこんな事にはなっとらんわい、と内心思ったのですが黙っていました。Aさんが言いたいことをそろそろ言い終わりそうだな、と頃合いを見計らって、

Sana:「Aさんのお話は承りました。Aさんが私に電話をかけてこられたことはNさんにお伝えします。しかしご理解いただきたいことがあります。Nさんも現在決して体調は良くありませんし、医学的に治療が必要と判断され、私たちが治療を担当しているのです。NさんがYさんに会われることは、法的に禁止されているというだけでなく、医学的にも勧められませんし、主治医も今すぐに会うことを許可しないでしょう。つまり時間が必要だということです。」

 Aさんは…本当に納得したかどうかは分かりませんが、とりあえず電話を切りました。

 DVに限らず、大きなトラウマを抱えてPTSDの症状を示している人は、少なからず自分を責める傾向があり、二次的にうつ病になることが多いです。Nさんだけでなく、多くの被害者はみな、このような辛いできごとが起こるには自分にも責任がある、わたしが弱いからこうなったのではないかと考えています。

 DVではさらに、パートナーへの愛情や責任感のゆえに、自分の無力さや十分に助けられなかったことへの強い自責感を抱いてしまうことがほとんどです。

 そのような状況にある人に、もっと辛い立場の人がいるんだとか、愛情が足りない、努力が足りない、などとあなたにも問題があるでしょということを暗にほのめかすような言葉は絶対に言ってはならないのです。
そういう言葉は、さらに彼らを追いつめてしまいます。

 Nさんは家族に対し十分に愛情を持っています。それでもこれ以上愛情をかけることがYさんのためにも自分のためにもならない、と離婚を決心したのです。

 Aさんのような例は、数え切れないほどあります。中には、専門職としてそのような被害者を助ける人たちが、同じような失敗を犯してしまうことがあるのです。

 PTSDの治療・社会的支援が難しいのはこういう理由もあります。
(今日はディブリーフィング的な要素が強いかな?)


 

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与える人生

 2週間ぶりにやっと、記事を書いてみようという気持ちになりました。

 8月に入り、大学病院の方が20日間の研修期間(つまりお休み)に入り、スクールカウンセラーも8月いっぱいはお休み、そしてクリニックもいつもの半分の勤務となり、残るはK市の幼児健診のみです。

 この休みの間に、学位論文の副論文(学位論文の一部となる論文)を2本、これが教授が私に出した宿題です。そういうわけで、休みといっても結局毎日大学と大学病院を行き来する生活が続きます。私は博士課程の最終学年にいて、つまりは崖っぷちに立たされている訳です。(しかも論文の1本は英文…!)

 1週間前、看護学校で前期最後の授業をしたときに、私は学生さんたちに一つだけアドバイスをしました。

 「皆さんが将来看護師として働き始めてから、皆さんの人生にはいろんなことが起こるでしょうし、壁にぶち当たることがあるかもしれません。しかしどんなことが起こっても、皆さんは患者さんの前ではプロの看護師として責任を持って働かなければならないのです。私たち(臨床心理士)も、同じです。だからこそ、ふだんから自分をいたわりケアする心がけが大事なんです。」

 私は今、このことを心から実感しています。

 数日前まで、私は心身共に疲労がピークに達していました。食べることも眠ることも、全てが思うようにいきませんでした。それでも必要とされれば、カウンセリングは続けなければなりません。どんなにしんどくても、相手のことを考えると休むわけにはいかないと思いました。

 先週の木曜日、私は大学病院と出張先の病院を含めて1日に6人の面接が予定されていました。その日の朝私は全く落ち着かず、とても全部をこなせる体調ではありませんでしたが、それでもできるだけやるしかない、と覚悟を決めて病院に向かいました。ところが病院についてみると受付から伝言が入っていて、体調や都合が悪いという申し出で4人がキャンセルになり、その上もう1人の患者さんが車の事故で道路が渋滞し、予定の時間に間に合わないという連絡があったというのです。

 思いがけずぽっかりと時間が空いてしまって、これからどうしようかと考えていたら、病院のスタッフが気をきかせてくれて、外に出てちょっとゆっくりしてくれば、といってくれました。

 お昼休みを挟んで2時間、私は市内を散歩しました。何も考える気力がなく、ただぼんやりと歩き続けました。初めは身体も気持ちも重く、何で私はこんなことをしているんだろうと思いました。しかし歩き続けていると、段々と気持ちが落ち着いてきて、これは偶然ではなく、必然的に与えられた休息なのだ、とふと考えました。

 散歩から戻って1時間少したったころ、遅れると連絡のあった患者さんがカウンセリングを受けにこられました。その時には、私はずいぶんと冷静さを取り戻していました。結局、残りの患者さんも予定通りに来られたので、無事にその日の仕事を終えることができました。

 調子のいい時に比べると、プロの援助者としては決して満足のいく結果ではありませんでした。しかし、私ははっきりと分かったのです。

 たとえ身体が動かなくても、気持ちが沈んだり辛くなったりしても、それでも誰かのために何か少しでもできることは残っている、と。 

 愛されなくても他人を愛することは、多くを望まなければできるでしょう。与えられないからといって、与えることができないとも言えません。たとえほんの少しのことでも、与えられるより与える人生のほうが、はるかに幸せなのです。

 このブログも一度は閉鎖しようと考えました。でも、まだ伝えたいことがたくさん残っているから、やっぱり続けようと思っています。ここを訪れて下さる方々に、私の記事が少しでも何かの参考になり役に立つならばこれほどうれしいことはありません。皆さんには本当に感謝しています。

 
 

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家族は許しを学ぶ場

 さっき書いた記事を削除しました。

 コメントを下さった方には大変申し訳ないと思います。

 昨日私は、ある大学の先生と1時間ほど、お互いの家庭の問題で情報交換をしました。(主に思春期の子育てのこと)

 その時に、その先生が言われたことが、今でもこころにずっと残っています。

 「家族は…ある時期に次々といろんな事が起こることがあるけれども、それを乗り越えるたびにお互いに結びつきが強くなっていくものなんですよ。それは、お互いに至らない所が見えて、許せないこともあって、それでも許すことを学ぶからなんです。」

 私は本当に至らないところがたくさんあって、それは皆さんも所々でお感じになっていることと思います。

 自分を責め、抹消することはカンタンですが、それは本当の解決法にはなりません。

 アチャモさんにも、ぴょろにとっても、確かに私の欠点は許し難いときもあるに違いありません。大抵の場合、それは一つ一つの出来事が過去のものになって、振り返ったときに気付くものです。「後悔と自責」を伴って。

 しかし、家族がどのような方向に進もうとも、お互いに許し合わない限りは決して前に進めません。

 それは、相手を許すと言うことだけでなく、自分の至らなさも許すということです。

 この過程を通らない限り、こころの平安は決して得られません。そして平安が得られたときに始めて、道の少し先が見えてくるのです。

 
 私は今、この課題に静かに、そして真剣に取り組んでいます。

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クライシス(危機)への介入(1)

 地震が起こる少し前から今までの約1ヶ月半の間に、立て続けにあるできごとが起きました。

 初めは3月の中旬の朝のことでした。2年ほど前までちょくちょくカウンセリングを受けに来ていた患者さんが突然携帯に電話をかけてきて、「ついさっき○○という薬をあるだけ全部飲んだんだけど、これからどうなるんですか?」と聞いてきました。

 その人がのんだのは、2倍量でも命を危険にさらすほど効き目が強い薬で、本人は強く抵抗したのですが、まず人命を助けることが優先されるから、ときちんと説明をして家族にすぐに連絡をとり、病院に連れて行き処置をするようにと伝えました。

 このときは対応が早かったので、大事に至ることなく何とか解決しました。(ただしこの話しには続きがあるのですが、それ以上は書くことができません)

 それから今日までの間、自らの命を絶つ手段をまさに実行しようとしている人が、メールや電話をよこしてきたことが、何度もありました。

 しかも、それぞれ違う人から、です。

 みな私との面識はありますが、ほとんどつきあいがない人も含まれています。だからこそ「なぜ私のところに連絡をしてくるのか」疑問に思ったこともありました。

 人の命がかかっていて、しかも連絡が電話やメールという手段に限られており、対応を誤れば責任は重大です。怪我や病気での人命救助と違う難しさがここにはあります。

 幸い今のところは、相手が何とか思いとどまって事なきを得ましたが、完全にリスクがなくなったわけではありません。実は地震のダメージに追い打ちをかけるように、彼らへの対応で神経をすり減らすような経験をしていたのです。

 本当に、重なるときは重なるものです。

 こういうことが次々に降りかかってくるのは、おそらく私の人間性や援助者としての力がこれから与えられるであろう様々な機会に耐え得るものなのかどうか、試されているということなのでしょう。もちろん、テストされる理由ははっきりとは分かりませんが。

 ある人のクライシス(危機的状況)に第三者が介入する、言葉で言うと単純なようですが、なかなか手強いです。なぜこのような宿題が与えられているのか…やっぱり謎です。

 それでも、これらの体験から学んだことはあって、これからそのことを少しずつ書いていきたいと思っています。

 その前に、一番最近のできごとが昨日のことなので、少し休んでからにしたいところです。
 


 

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軽度発達障害について思うこと(6)

 さて、発達障害の診断に関しては、もう一つ大きな問題があります。

 先週、ある病院のスタッフミーティングに参加した時、一人のケースワーカーがある新規の患者さんについて短い報告をしました。「適応障害」の診断がある不登校の高校生で、人前での緊張が強くて学校を長期で休んでいて…と、大まかなこれまでのいきさつと簡単な生育歴の紹介があり、それから皆で今後の援助について話し合いました。

 私はその患者さんの生育歴を聞いていて、思い当たることがあったので、ミーティングの時に「適応障害であることは間違いないが、発達障害が背後にある可能性も考えた方がいいのではないか」と提案しました。

 ところが、あるベテランのスタッフから「先生(精神科の主治医)はそういうことは一切言ってなかったので、それはここで触れる必要はない」とばっさり切られてしまいました。

 こういう事は、病院ではよく起こります。Sanaさんはすぐ発達障害に結びつけるから、と皮肉を言われることもあります。同業者や精神科医と意見が合わないことはしょっちゅうです。

 小児科医や発達障害を専門にする精神科医でない限り、思春期以降、発達障害が診断の候補に挙がることは、極めて少ないです。そして、S先生によれば、多くの場合、特に自閉症スペクトラムについては、二次障害がないのに別の病気として誤診されているケースが多いというのです。それは、気分障害、統合失調症、人格障害…と様々なのだそうです。

 一般の精神科の見方は、symptoms-based(症状が基本)です。今ある症状がどの疾患の基準に当てはまるかで判断するので、似たような症状をもつ別の疾患として取り扱われることは不思議なことではありません。

 一般的に、小児科に比べると精神科の発達障害への感心が低いのも事実です。「発達障害があるかもしれないと思うので、調べて下さい」とこちらから言っても、医師によっては一蹴されることもあります。私は以前、うつの治療のために行った病院で、「調べても気休めにしかならないですよ」と言われたことがあります。(アメリカで間違いなくそうだ、と言われたにもかかわらず)

  ここに「二次障害」が加わるとさらに複雑になります。元来発達障害が存在し、その結果としての二次障害なのか、あるいは別の原因で発達障害に極めて似た行動上の問題が起きているのかを判断しなければならないからです。

  発達障害かどうかを診断する上での基本情報の大半は、生育歴を含む、生活史の詳細な聞き取りから得られます。発達障害かどうかを判断するためにはまず家庭環境を念頭に置かなければならず、虐待が明らかな場合、子供の行動が発達障害によるものなのか、あるいは虐待の結果として生じた行動障害なのか、あるいは両方からくるものなのかを判断しなければなりません。

 例えばADHDの場合、不注意なのか解離症状なのかの鑑別が必要ですし、多動については虐待やDVの影響による可能性を考えなければなりません。発達障害を持つ子どもたちの多くは、虐待の被害者でもあります。その場合はまず虐待に対する対応が優先されるのはしかるべきことです。さらに、先天的には発達障害がなくても、虐待の程度によっては後天的に発達障害が生じる可能性もあるので、子供の診断にはまず虐待の有無を確認してから発達障害についての診断を考える必要があります。

 虐待がない場合、二次障害が起きるのは日常のストレスが原因となることが多いです。そして年齢が上に行くほど、二次障害の方に精神医療の注意が向いてしまい、大元のところにある発達障害が見えにくくなってしまうのです。それは障害の多様性だけの問題ではありません。複数の精神疾患に共通する症状というのが思いの外多いからなのです。

 多動や不注意は、ADHDだけのものではなく、うつ病や不安障害でも同じような行動が起こります。高機能自閉症やアスペルガー症候群の人に多い、過度の緊張やパニックは、統合失調症の破瓜型の初期でも同じような状態が見られます。従って、精神医学の立場からは、「これはうつ病の症状」「これは統合失調症の発病期だ」と判断されることは何ら不自然ではありません。

 発達障害の可能性を証明するには、生育歴が有力な助っ人になるのですが、年齢が上がると本人も家族も詳しいことをあまり思い出せなくなっていることも多く、「特に何も問題なく成長し…」となると、もうお手上げなのです。

 そうならないためには、虐待などの大きなトラウマがない場合に、それぞれの発達障害に合併しやすい精神疾患が何であるのかを前もってきちんと把握しておく必要があります。

 LDや自閉症スペクトラムの当事者が診断されることが多い疾患は、パニック障害、強迫性障害、全般性不安障害、気分障害(単極性うつ)、社会不安障害、などです。

 アスペルガー症候群は、気分障害(双極性障害)の割合が高い、という報告もあります。個人的には、心身症(身体表現性疾患)も多いかなと感じています。

 ADHDは、過剰適応があると不安障害になりやすく、気分障害(単極性うつ)も多いです。大人になってからADHDかどうかを判断する場合、うつとの関係を明らかにするのは難しいです。

 その上で、「ある精神疾患の診断を受け、その診断に見合った薬物治療を行うときに、処方薬が頻繁に変わったり、あるいは期待していたような効果が3ヶ月以上投薬をしても見られない場合は発達障害を疑ってみる」ようにすると言う方法を、私は普段使って対応しています。

 「難治例」と呼ばれる患者さんたちの中に、何らかの発達障害を抱える人が含まれる可能性は否定できません。そして面接を進める中で、特にこちらから指摘することをしていないのに、後から生育歴が少しずつ明らかになることもあり、診断とは一度決定したからそれが全てと思わない方がいいと、いろんな人の例から学ばせてもらっています。


 
 
 

 

 

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