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何のための告知なのか

 今、非常に困っていることがあります。

 アスペルガー症候群が疑われる大人の患者さんは、基本的に主治医が検査を勧め、了解が得られたら予約制で検査を受けてもらい、主治医と相談した上で検査結果は主に私が伝えるという手順になっています。

 私は医者ではないので、最終的な診断は主治医に任せ、本人の性格的な特徴や認知・感情・社会性からみた問題点などを話し、手短にアドバイスをするか場合によっては短期のカウンセリングを勧めることもあります。

 高校生以上であれば、本人と家族には別々に説明することがほとんどです。アスペルガー症候群であることが明らかな場合、家族が発達障害について知ることは非常に有益であるため、資料や本などを紹介しながら時間をかけて話をします。家族の受容も大変とは時々聞くのですが、私がお会いするご家族は理解の早い方が多く、そうでない方でも実際に本人について困っておられることがあって、それがなぜ起きているのかを話すと大抵は受け容れて下さるので、家族への説明で問題が起きることがほとんどありませんでした。

 ところが、本人への説明は、時々予想外の事が起きたりするので、何をどう話せばいいか毎回非常に頭を悩ませています。

 発達障害についてはっきり告げるかどうかはケースバイケースで、本人の精神状態や性格傾向次第では行わないこともあります。中には自分でネットなどで調べてきて、発達障害なのかどうかはっきりしてほしいと言われる方もあるのですが、そういう場合でもすぐには相手の要望に応えないこともあるのです。

 今まで非常に多くの大人の方の検査をやってきて、改めて振り返ってみると検査結果をすんなりと受け入れられた人とそうでない人が50/50くらいだったように思います。受け入れられた人の中には、何度かに分けてじっくりと説明してやっと分かってもらえた人もいますが、およそ受容に至る人は自分をある程度冷静に見つめることができ、多少考え方が変わっているなと思うところがあっても、心根は素直で周りの状況もある程度理解できているのだろうと思います。

 検査の時の本人の態度や検査結果の分析を見た時点で、多少はその人が受容ができそうな人かそうでないか予測はできるのですが、私も完璧ではないためごくたまに大きな問題が起こることがあります。とりわけ本人が自分自身について思いこんでいることと私が説明した内容が合わない場合に、感情的な問題が発生しやすくなります。

 例えば、心理検査(ロールシャッハ・テスト)について結果を説明した時に、このような結論はどこから出るのか根拠をはっきり教えてくれと言われたこともありましたし、テストの点にこだわりの強い患者さんで、知能検査(WAIS-III)が納得いく結果が出なかったからもう一度やらせてくれとしつこく言われたこともありました。またクレームが私を通り越して主治医に向かう人もいて、予測のできない相手の反応に、こちらが神経をすり減らしたことも何度もありました。
 
 中には、コミュニケーションの難しさや人付き合いの不器用さなどの特徴を話すと、確かにそういうところはあります、と言うものの、「私は絶対にアスペルガーではない」と真っ向から否定されたこともありました。それでも自分自身の問題に多少は気づいていて、実際困ってもいるので話す意義は十分にあったと思います。

 一番困るのは、検査前は自分の特徴を知りたい、と言いながらも結果を伝えるとそれは私が(自分自身について)考えていたことと違う、と詰め寄られるときです。過去5年間で2,3人、そういう方にお会いしています。割合としては少ないかもしれませんが、1人そういう方を受け持つと、精神的にはぼろぼろになります。

 私はできるだけ相手が分かる範囲内のことを伝えようと、それなりに言葉は選んで説明をするのですが…こちらが伝えたいことが相手にほとんど伝わっていないのが、話している最中でもよく分かります。そして多少時間が過ぎてから、「きちんとした説明がなかった」「先生の言葉で傷つけられた」と私だけでなく主治医にもクレームが行き、自分の思うような答えが出るまで何度でも同じ事を言い続けるのです。

 最もひどかったケースでは、電話やメール責めにあったこともありました。別のケースで面接中に直接乗り込んで来られたこともありました。

 彼らは自分自身についての問題意識の低い、それでいて他人のちょっとした矛盾も見逃せず約束事や筋を通すことに強迫的な、「待てない」タイプの方々で、主治医も家族も私も皆が巻き込まれ、小さな誤解や思い違いがなぜかまるで一大事のようになってしまうのでした。

 さらに困ったことに、彼らは家族への説明を非常に嫌がるので、家族とも十分な話し合いができないやりづらさもありました。家族のことにちょっと触れただけで、突然表情が険しくなり怒りをあらわにした人、家族と同席でないと嫌だと駄々をこねた人、無言でにらみつける人…と反応はまちまちですが、非常に張りつめた瞬間であったことに変わりはありません。

 最近のケースでは、運悪く離婚や母親の入院などプライベートでも相当なストレスを抱えていた時期と重なったのですが…むろんそういう事情が考慮されるはずもなく、今もまだ度々相手からの苦情を受け付けている状態で、それが非常に今重荷になっているような気がします。結局は本人が思う通りのことを私が言うまで、この状態は続くのだろうと思います。

 こういうケースを何度か体験すると、何のための(発達障害の)告知なのだろうかと考えてしまいます。知ることが役に立つのであれば、本人のためになることを知らせてあげたいと思う気持ちは今もあるのですが、相手によっては検査でわざわざ波風を立てるくらいなら、そのままでいた方がいいのかとも思います。自分の特徴や問題を知ることが、何らかの面でプラスに働くのでなければ、本当はあまり検査を勧めたくないというのが私の本心です。

 そういうできごとが何度かあって、主治医も気を遣ってくれるようになり、最近では発達障害の可能性があるからとはっきり伝えてから検査を勧めてくださっています。

 周囲に多少の理解者もおり、環境としてはそれなりに恵まれてはいるのですが、正直なところ、この領域の仕事(発達障害の精査のための検査)からしばらく降りようかと真剣に考えてしまうほど、疲れ切っているのも事実です。

 
 
 

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人生は気づいたときからやり直せる

 配偶者との離婚は、私にとってはかなりのストレスでしたが、中でも調停は最もエネルギーを消費したように思います。

 離婚後、それなりに穏やかな生活はできているものの、今でも相手の事を思い出して怒りがこみあげてくることがたまにあり、鏡に映る自分の疲れた顔を見ていると、まだ十分に立ち直れてはいないのだなと思い知らされます。

 元配偶者のことではいろいろな人が巻き込まれ、皆の中に多少なりとも嫌な思いが残っただろうと思います。失ったものの中には、多分取り戻せないであろう、元配偶者以外との人間関係も含まれています。

 私ははじめから、弁護士を通して話し合いでの離婚を望んでいました。しかし元配偶者はそれをせずにいきなり調停に申し立てて、私が離婚に応じないなら審判も辞さないという強硬姿勢を崩しませんでした。「私(Sana)が勝手に子どもを連れて出て行って、妻としての義務を果たさなかった」というのが離婚の主な理由に挙げられていました。

 事実とは違うことなので、反論しようと思えばできたのですが、私はそれはしませんでした。また自分の正しさを主張するのも賢明でないと思ったし、感情的になれば相手の思うつぼだと思ったので、必要以外のことは何も言いませんでした。ただ毅然と言うべき事をいい、引くべき時に身を引く、それだけでした。

 私は調停で自分がいかに善良な夫、よい父親であるかを必死でアピールする元配偶者の姿を見て…確かに彼にも良い面はあるし、父親としてよくやってくれた事は認めるけれど…自分をよく見せようとすることがばかばかしくなりました。他人に理解され受け入れられるために、そこまでやらなければならないのだろうか、とも感じました。

 果たされなかった多くの約束より、相手を傷つける言動より何より、もう嘘は嫌だ、と本気で思いました。自分にも他人にも正直でいることが一番大切なことだと、このときにはっきりと悟りました。誰かを悪者にして自分の善良さを証明することなんて、何の利益にもならないと思いました。

 それまでの私は、相手に気に入られようと自分を偽り、無理にいい人を演じていたところが大いにありました。そうすれば、他人は私を受け入れてくれるだろうと思っていたからです。元配偶者を見て、それは逆に自分を苦しめ、相手を傷つける行為だと始めて理解しました。過去、私には人間関係において、多くの過ちも失敗もおかし、決してよい人間ではありませんでした。しかしそのことに随分長く気づかず、現実のそのありのままを見てはいませんでした。

 そのとき元配偶者もまた、自分自身が何をやっているのか本当には分かっていないのだろうと感じました。それならば相手をただそのままにしておくことが、私にできる最善のことだと思いました。

 私はこの経験のあと、しばらくの間、深く自らを反省しました。
 私はできる限り、誰に対しても正直で誠実でいようと思いました。
 人に優しくすれば自分も優しくされる、という考えは捨てました。自分にも人にも優しい人間でいようと思いました。

 この一連のできごとから、「人生は今日、気づいたときからやり直せる」ことも学びました。もう絶対に後戻りはしたくないので、小さなことに喜び、感謝する心を持ち、ありのままを生きていく…そう自分に繰り返し問いかける毎日です。

 

 

 

 

 

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発達障害の成人用問診票

 2ヶ月ほど前から発達障害の鑑別のための心理検査を頼まれることが増え、今では小学生から50代まで幅広い年齢の方が検査を受けに来られるようになりました。

 高校生以下の子どもたちについては、検査以外に保護者から育ちの経過や普段の様子について別に時間を設けてお尋ねするようにしています。それは単に生育歴について尋ねるだけでなく、いろいろ悩んでいる事を話してもらい精神的なサポートをしたいと思っているからです。

 大人の方については、分かる範囲で子供時代の事をご本人からお聞きするか、あるいは家族(親きょうだいかパートナーのどちらか)に電話などで、子供の頃の事や第三者から見た普段の様子などを尋ねることにしています。しかし子供時代の事になると、随分昔の記憶をたどることになり、本人も家族も細かいことを尋ねられても忘れていることも多く、聞かれてすぐ答えられるとも限りません。また家族に連絡を取ろうにも、相手の都合がなかなか合わず聞きたいと思っていることが十分に聞けないことも時にあります。

 先日ぴょろが京大病院で初めて診察を受けたとき、事前に5枚セットの問診票が送られてきてそれを記入し当日に持参するという流れになっていました。以前勤めていた大学病院でも同じような問診票を事前に郵送していたので、どこも大体同じだなと思っていたのですが、いざ書き込みを始めると質問項目が予想以上に多く、すでに中学生となったぴょろには必ずしも当てはまらず、どう書いてよいか問診票を前にしばらく悩んだところもありました。

 だけど問診票自体はあれば確かに便利だなと思ったし、書き込みながらふと、「大人用の問診票を自分で作ったらどうか」とひらめいたのでした。

 発達障害かどうかを調べる場合、検査を受けて結果を伝えるまでに最低でも3,4回はクリニックに足を運んでいただいているのが現状です。最近は広島や岡山など遠方から来られる方もいて、問診票を使えば面接時間を短縮でき、その分を検査のための時間に当てることで、1回分でも来る回数が少なくなればそれだけ時間や経済的負担も軽くなると考えたのです。

 そこで、まずは試しにと大人用の問診票を作ってみました。まだ試作段階で、使いながら多少変更を加えることがあるかもしれません。およそ今まで繰り返し尋ねてきたことの中で重要度の高いものを選んだので、いわゆる診断基準にそった標準的な質問でないものも含まれています。また、問診票はそれを手がかりに面接をスムーズに進めるためのもので、発達障害の可能性があるかないかをかなり大まかに知ることはできますが、それだけでASなのかADHDなのか、LDなのかという詳細な予測を立てることはできません。

 つまり、あくまでも検査診断に関わる人用に作ったもので、他のサイトにあるようないわゆる自己診断ができるような類のものではありませんが、こういうことを聞かれることもあるんだな、という意味で参考にしていただけるなら幸いに思います。

 発達障害を専門に診る病院ならもっとよい問診票を作っておられるかもしれません。何せ小さなクリニックで細々とやっていて、「こんなものがあったらいいなあ」と思うものを作ったに過ぎません。大学生以降、大人の方が多いのでまず大人用を作りましたが、次に中学生・高校生用の問診票も作る予定です。そして少しずつ改良を加えながら、もっと日常業務に役立つものにしようと思っています。

 問診票はwindows用とMac用の2種類作りました。違うのは文字種とレイアウトだけです。

問診票_win.doc

問診票_mac.doc

 

 もし、問診票について、こういう質問もあった方がいいとか、こういう言い方の方が分かりやすいとか、何かご意見やご感想がありましたら、コメントかメールでお知らせ下さい。

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「友だち」の定義

 長く愛用しているVAIOの調子が最近悪く、使っている途中でよくフリーズするようになりました。これから修理に出すところで、しばらくはiBookだけが頼りです。
 
  Windowsしか対応していない統計ソフトとか、ゲームとかいくつか不便な点はありますが、iBookの方が使い勝手がよくバッテリーも長持ちするので、コードレスであちこち持ち運ぶことができ、ちょっとメールを見たいときとか、短時間の作業をするには便利だなあと思います。

 以前から私は、DSM-IVの「アスペルガー症候群」の診断基準には偏りがあるように感じていました。例えば、
 「人と社会的・感情的なやりとりを交わす能力に欠ける」
 というのは、アスペルガーを持つ人たちの状況を必ずしも適切に言い表していないと思うのです。

 ギルバーグの診断基準にも「友達と相互に関わる能力・意欲に欠ける」という一文があるのですが、それもちょっと違うだろう、と個人的には思います。多くは他者と友達になりたい気持ちも、親しく関わりたい気持ちもそれなりに持っているけれど、実際どう関わっていいか分からず、人と関わることにとまどいや不安・緊張を抱いているのですから。

 人に好かれたい、認められたい気持ちはみな同じだけど、おそらく定型発達の人たちから見て、アスピィ(アスペルガー当事者の事をそう呼ぶことがあるらしい)は多分不器用で、ちょっとややこしく見えるのではないかと、時々そんな風に感じます。他者に対する共感についても、乏しい人ばかりではありませんし、相手の立場をある程度考えて行動することができる(けど対応の仕方は合ってない)人もたくさんいるのです。

 こうやって考えると、アスペルガー症候群についてはまだ多くの誤解があるような気がします。

 「友達がいない」という悩みは、実際によく耳にします。しかし丁寧に訳を聞いていくと、全くいないわけではないことが多いです。年賀状をやりとりしたり、たまにメールや電話で連絡を取り合う人が少なからずいるのに、普段一緒に行動を共にすることが滅多にないから、友達とは呼べないと思いこんでいる人も、時々いるようです。

 また、過去にいじめられた経験があって、人付き合いにことさら慎重になっていると、相手は好意をもって仲良くなろうとしているのに、こちら側がそれを受け入れられないということもあります。そういう場合、「友達がいない」との言葉の裏に、「信頼できる人がいない」という意味が含まれているのかなと感じます。

 さて、私も10年以上、「友達」の定義でずっと悩み続けた経験があります。

 ぴょろが生まれる前に知り合った人と、お互いの子どもの誕生日が近いこともあり、ずっと長く家族ぐるみでおつきあいをしていました。その人といっしょにあるサークルのクリスマス会に招かれた席でのことです。

 何家族か集まっていて、お互いをよく知らない人もいたので自己紹介をすることになりました。「家族は何人か」「好きな食べ物は何か」とかお決まりの話の他に、「(その日集まっていた人たちの)誰と友達か」という、今考えるとヘンな質問がありました。

 皆ひととおり自己紹介を終わり、彼女の番になったときに「この中の誰と友達ですか」と聞かれて彼女は何人かの名前を挙げたのですが、最後まで私の名は出てこなかったのです。

 私にはちょっとしたショックなできごとでした。家も近く、子どものこともあって割とよく話もしたし、それなりに付き合いもあって、私はその人を友達だと思っていたのに、彼女にとってはそうではなかったのだな…と。そのときに私は、「こちらが友達だと思っていても、相手は必ずしもそう思っていないことがある」と学習しただけでなく、「それなら私が一方的に友達だと思うのは失礼なことではないか」と、それ以後しばらく人付き合いに慎重にならざるを得なくなりました。

 それから十数年、ぴょろの学校や部活の保護者会、大学院や仕事など、いろいろな場所で出会いはあって、それなりに気が合いそうな人も何人もいたのですが、このときのことが頭から離れず、多分この人たちにももっと親しい友達はいるのだろうな、と思うと自分からは踏み込めず、人とつきあうこと自体がおっくうになってしまっていました。

 関西に移った当初、まだ新しい環境になじめなかった頃、私を気遣って何度かメールや連絡をくれた人はいたのですが、私は自分が悩んでいることは誰にも話せませんでした。友達がいない、とその頃は思っていたので、不安と寂しさでやりきれなくなることが何度もありました。

 その後、仕事を通してある同業者の女性と知り合いになりました。彼女はクリニックの非常勤のカウンセラーで、大学の学生相談に長く関わっていて発達障害のことをよく知っていました。お互いの専門性が似ているということで話が合い、お昼休みに一緒に弁当を食べたり空き時間にちょくちょく話すようになりました。

 そのうちぽつぽつ、仕事の事だけでなく互いの家庭のことなども話すようになり、何となく親しくなりました。関西に来て始めて知り合った、貴重な仲間だったのですが、私はこの人の事も以前のことがまだひっかかっていて友達と呼ぶには抵抗がありました。もともと明るい性格の人で、交際範囲も広いので多分私は友達の範疇には入っていないだろうな、と勝手に思いこんでいたのです。

 昨日、仕事に来ていた彼女と話していて、「実は私は”友達”の定義が分からない」と、10数年前の事を始めてうちあけました。全く人付き合いをしないわけではないが、友達と呼べる人は多分いないと思っているのだと話すと、

 「ええ〜?!じゃあ私の存在は何なのよ?私は友達と思ってんのに」…と何を言っているのこの人は?…という表情で切り替えされました。

 「あのね、普段から仲いい人も、普段はお互い忙しいからやりとりできへんけど何かあれば連絡取り合う人も、みんなひっくるめて友達と思ってんのよ。Sanaさんは、そこをはっきり分けて考えたいんやな」と、それを聞いてちょっぴりほっとしました。この人、分かってくれてんのやなあ、と。

 その時ちょっと考えてみて、もしかしたら私の事を友達と思ってくれていた人は他にもいたかもしれないな、と気がつきました。こちらがあまり慎重になりすぎて、近寄りきれなかったのが残念な気がしました。

 どちらかが無理をしなければ付き合えない関係は、確かに友達とは呼びにくいかもしれません。でも、何となく気があって無理をせずに付き合えて、多少心を開ける関係があれば、それは十分友達と言えるのだと、やっと理解できた気がしました。友達とは、時間も空間も越えられる関係なのだと、そんな風にも思いました。

 このようにものごとを何かと難しく考えてしまうのが、私のアスペたる部分なのですが、どこまでを友達と呼べるのか、友達って何なのか、私と同じように悩んでいる人はもしかしたら案外多いのではないかと思う次第です。


 

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自分を大事に

 一昨日久しぶりに力を入れて記事を書いたのですが、運悪くメンテナンス時間にひっかかり書いた記事が全部消えてしまいました。

 障害について本人にどう説明するかという内容だったのですが、また書き直しです。

 来週末までは忙しいので、少し先のことになりそうです。

 昨年11月以降、仕事がいろいろと入り休日は日祝日だけ、という状態になりました。土曜日は2カ所の病院で仕事をし、帰りが八時半をすぎることもしばしばです。また普段も、検査などで残業になることも時々あります。

 仕事以外の時間はほとんど家事に費やされ、ゆっくりできる時間はあまりありません。母親は入院していますし近くに親戚もいないし頼み事ができるほど親しい人もいませんので、全部を一人でこなしています。ぴょろは部活がなく気分の良いときは手伝ってくれますが、それも限りがあります。

 最善を尽くすように心がけても、なお毎日が時間に追われている感じがします。

 そういう生活からくるストレスなのか、最近体調が不安定でさすがに体がしんどく、以前より気力がなくなっている気がします。多分忙しさだけでなく、精神的に辛くなった時に気軽に話せる人が、身近にいない寂しさもあるからなのかもしれません。

 九州にいたときより、なじみにくさを感じることもしばしばです。

 友達はすぐにはできなくても、せめて今は心安らかに過ごせればと思います。もともとあまり体力がある方ではないので、こうなってみてようやく、自分を大事にしなければと気づいた次第です。


 

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天職と使命

 新しい年が明けました。
 年末は、ぎりぎりまで仕事や用事に追われ、今日やっとゆっくり過ごす時間を得ました。

 入院中の母に会いに一足先に九州へ戻ったため、正月はどこにも行かず、簡素に済ませました。本を読み、長く滞っていたポケモン(パール)を先に進め、TVを見て…こんな静かな一日を過ごしたのは本当に久しぶりでした。

 さて、Silent Voicesを始めて、ちょうど3年が経ちました。
 個人的な事情でしばらくお休みはしたけれど、再開してよかったと今は感じています。
 再開後、記事の更新の度に、コメントやメールをいただいたことも、心から感謝しています。メールへの返事は書けていないことが多いのですが、みなさまのメッセージを謙虚な気持ちで受け止めていきたいと思っています。

 最近、発達障害の事がマスメディアでも度々取り上げられ、専門書も一般向けの本も徐々に増えてきていて、それに伴いネット上でも様々な情報が発信されてきています。

 社会的な関心が高まるなど、確かに好ましい一面もあると思います。しかし、大人の当事者向けの情報は驚くほど少なく、高校生以上になると相談窓口も、診断治療のできる専門家も急激に減ってしまうのが現実なのですが、それらの問題に対する具体的な対処法が述べられているものはほとんどありません。

 また、援助のノウハウも、子供ほどの蓄積がないのが現状です。例えばコミュニケーションや認知の問題から、TEACCHのようなツールが必要だと分かっていても、子供向けのものをどう大人向けにアレンジすればいいのか、今も臨床現場で試行錯誤の状態が続いています。

 私は時々、サーチエンジンなどを使って、アスペルガー症候群についての情報を調べていますが、確かに私がブログを始めた頃よりは情報量は格段に増えていますし、質的にも上がっています。それでも”もしかしたら自分はアスペルガー症候群ではないのか”と感じている大人の人たちが、最も得たい情報を得られる場所は少ないのではないでしょうか。

 昨日、改めて私は今何ができるのか、これから何をすればいいのかをもう一度真剣に考えてみました。

 アスペルガー症候群については、子供の時から自分自身が困ってきたことや身内のことなど身近にある問題として、あるいはカウンセラーとして患者さんと出会う中で経験的に学んだこととして、これまでいろいろなことをここに書いてきました。最初から明確な目標があったわけではなかったのですが、多分他の人も知りたいだろうなあと思うことを書いてきた、というところです。

 これからも、とりわけアスペルガー症候群については、私が学んだ事を正直に伝えることで、みなさんのニーズに少しでも応えていきたいと思っています。それと同時に、検査や説明(フィードバック)の技術もさらに磨くことで、一人一人の特徴や状態を、できる限り適切に理解し援助できるようになりたいとも思います。

 この領域の問題について、多くの人と知識や経験を分かち合うことは以前からの私の望みであり、喜びでもあります。

 しかし、アスペルガー症候群に関してプロの援助者になることが、私の最終目標ではないことも、ご理解いただきたいと思います。私が思っている「天職」は人を癒すことであって、トラウマによって心に深く傷を負った人たちが心の平安を再び得られるように援助することが、今与えられている使命なのだと思っています。

 アスペルガー症候群は、私が自分のなすべきことを果たすプロセスでしばしば直面せざるを得ない、トラウマの治療を困難にする要因の一つです。そしてこの発達上の問題を適切に理解し対処することが、トラウマ治療を効果的に進め回復を促すには必要不可欠なのです。また自分の特徴や状態を知ることは、同じような傷つき体験を繰り返さないための手がかりを与えてくれることもあります。

 だからただアスペルガー症候群について書いていくのではなく、読む人が少しでも気持ちが楽になったり癒されるようなものを目指したいと思っています。

 
 今年もどうかよろしくお願いします。

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