« October 2006 | Main | December 2006 »

自閉症スペクトラムと人格障害

  親子や夫婦間の問題について取り組んでいると、時々問題の中心にいる人物が、果たして自閉症スペクトラムなのか人格障害なのか迷うことがあります。

 とりわけアスペルガー症候群については、伝統的な自閉症とは多少異なる特徴を持っていることや、コミュニケーション・社会性の障害の程度に幅があることから、正確な診断が難しく、人格障害と誤診されるケースも多いようです。

 アスペルガー症候群や高機能自閉圏の当事者との関わりが増えてくると、それぞれ抱える問題は違いながらも、ある程度の共通点は見えてきて、以前にも触れたように、人との関わりを避ける孤立型、一方的でしばしば不適切ながら人と関わろうとする積極奇異型、周囲の状況を先読みし自分を必要以上に抑えてしまう過剰適応型といくつかのタイプがあることが分かってきました。

 生育歴や現状況についての情報と心理検査や行動観察の結果に基づき、適切な判断がなされれば、人格障害と診断される可能性が少なくなるとは思います。私が相談を受けた患者さんの中には、アスペルガー症候群の可能性が高い人なのに他の病院で「あなたは人格障害だから、治療できない」と言われてひどく傷ついた体験を持つ人がいます。そのような不適切な診断や不適切な対応はあってはならないし、なくしていかなければならないと思います。

 しかしその一方で、高機能自閉圏でありながらも、本人の抱える問題が発達障害だけで説明しきれないときがまれにあります。

 DVやモラルハラスメントの被害者から語られる、加害者のプロフィールや代表的なエピソードを聞いていると、コミュニケーションの稚拙さや社会性の乏しさ、こだわりの強さという点では確かに自閉圏の問題は抱えているけれど、それ以上に反社会的な行動や道徳観念の乏しさ、自分は特別な人間(だから何をしても許される)という独特な特権意識など、どう考えても人格の著しい偏りがあるとしか考えられない人物像が浮かんできます。

 また、私が病院で面接や検査をした患者さんの中にも、虚言癖(平気でうそをつくが、決して認めない)があり、家族や周囲の人間を巻き込み思うように操作している人や、社会的な逸脱行為がありながら全く認めようとしない人など、対応の極めて難しい強者がいました。

 自閉症スペクトラムと人格障害の合併する可能性については、今の段階ではあくまでも私見にすぎませんが、症例数が増えれば増えるほど、見過ごすことのできない問題として浮かび上がってくるのです。

 このHPを見てくださっている方の中にも、私が書いていることに多少心当たりを覚える方がおられるかもしれません。それは決して偶然ではないと思います。学術的に十分な裏付けはありませんが、確かに合併例は存在するはずです。

 人格障害には、幾つかのタイプがあります。中でもサイコパスと呼ばれるものは、精神病とは違いますがその人格の偏りは著しく、良心や道徳心が育つための自己洞察力や内省力がほとんどない、専門家を非常に悩ませるタイプのもので、日本ではおよそ100人に1人程度存在していると考えられます。

 彼らのような人物が周囲に一人でもいると、非常に多くの人が巻き込まれ、好ましくない影響を受けます。また彼らから直接受ける心の傷(トラウマ)は非常に深く、治療に相当の時間を要することも少なくありません。

 自閉症スペクトラムがサイコパスに合併していると、従来の視野の狭さや思考の硬直性のような自閉症の特徴が人格の偏りにさらに拍車をかけることになります。とりわけアスペルガー症候群で社会性などの障害が軽度な場合、人格の偏りはしばしば見過ごされ、彼らの持つ冷酷でぞっとするような一面を知る人物は、かなり限られてくることになるでしょう。

 しかし、いじめの中心人物の中に、ハラスメントやDV加害者の中に、犯罪に手を染める人たちの中に、確かにこのカテゴリーにあてはまる人たちが少なからずいるはずです。

 彼らはほぼ、自分が何をやっているのか全く分かっていません。また第三者から指摘されても他人事と受け止めて流すか、逆ギレするかのどちらかです。社会的な逸脱行為に対しても、現状では矯正は不可能と言われています。境界性人格障害にある程度効果があると言われている、弁証的行動療法も、合併例ではほとんど歯がたちません。

 さらに問題なのは、自閉症圏と人格障害が合併すると、自発的に相談機関や病院を訪れることはまずありません。何よりも、彼らによってトラウマを負った人たちの援助が急務であり、バラバラになった人間関係を再構築することにエネルギーを注ぐだけで精一杯なのです。

 もし、身近にそういう人がいることに気づいたら、打つ手は一つしかありません。
 彼らに対してできることはして、あとは関係を絶つか極力関係を持たないようにすることです。

 このようなサイコパスな人たちが、周囲をどのように巻き込み操作するかについては、この後、いくつかの記事に分けて、ご紹介しようと思います。

 繰り返しますが、多くの自閉症圏の当事者は人間関係に巻き込まれることはあっても、巻き込むことは決してありませんし、とても真っ直ぐでたくさんのよい性質を持っています。サイコパスを合併しているのは、ごく一部なのです。しかしこの一部の人たちが、社会に与えるマイナスの影響は予想以上に甚大で深刻なのです。


 
 

 

| | Comments (415) | TrackBack (10)

こころの光

 少し前のこと、ある有名なマジシャン(イリュージョニスト)が、スプーン曲げのやり方を説明しているのをみて、本当にできるかどうか、試したことがありました。

 こんな簡単な方法でできるならおもしろい、と思ったのです。

 結果は見事に曲がりました。注)普段使っているスプーンなので、あわてて元にもどしましたが…。

 その方は、”この方法だと約3分の1の人がスプーンを曲げられる”、と話していました。この程度の力は、多くの人が潜在的に持っているのだそうです。

 それから約2ヶ月ほど経ったある日、今度は警察と協力して失踪者の捜索などにあたっている、ある能力者(透視者)について紹介したTV番組を見ました。

 海外ではかなり有名な人のようで、子どもの頃に自分に透視の能力があることに気づき、少しずつ経験を積みながらその力を隣人のために役立ててきたそうです。

 その人は、インタビューの最後に、「本当は誰もが同じような能力(先見や直感などの第六感)を潜在的に持っているけれど、それに気付いていない人が多いのではないでしょうか」と話していました。

 この話を引用したのは、特殊能力の話をするためではありません。

 日々病院や学校や大学でいろんな人と出会いを重ねていく中で、「誰もがかけがえのない存在である」という言葉の、深い意味に気付いたのです。

 確かに顔つきも性格も他に誰ひとりとして同じものを持っている人はいません。ひとりひとりが皆、違った存在なのです。それは状態だけでなく、個人の持つ能力にも言えます。

 誰もがみな、きらりと光るものを持っていて、人の可能性は無限である…出会いを通して次第にそう感じるようになりました。発達障害のあるなしに関わらず、誰にでも天与の、潜在的な力が備わっているのだと。

 しかし、与えられた能力を十分に伸ばせる人はそう多くありません。気付いていないのではなく、もっと別の理由で人の成長はしばしば阻まれているように思います。

 人間が抱きやすい「恐れ」には次のようなものがあります。

 死に対する恐れ、孤独への恐れ、失敗への恐れ。これらは普遍的で分かりやすいものです。

 それだけでなく人はしばしば、自分の定めた限界を超えてしまうことへの恐れ、つまり成功への恐れを抱きやすい性質があるのです。

 成功への恐れは、他人との比較や競争からも生まれます。私たちがもっと善くなることを恐れるのは、自分の人生を生きていないからなのです。仕事につながらないとか直接の収入にならないからとか、様々な理由を挙げて、人はしばしば自らの能力を伸ばす機会を失っているような気がします。

 私たちは、例えるならパズルのピースのように、一つの宇宙全体を構成する、欠かすことのできない大切な存在です。個々に違う私たちは、実は深いところで一つにつながっているのだと感じます。

 そのような視点から今の状況を眺めていると、時にそれぞれが皆自分の持つ力を最大限に発揮すること、そして他者がその力を発揮する手助けをすることが、宇宙の意思ではないかとさえ思うことがあるのです。

 さて、ネルソン・マンデラの詩がこのことを最もよく言い表しているので、ぜひご紹介したいと思います。


 わたしたちのもっとも深い恐れは非力だということではない。
 計り知れない力をもっているということを、
 わたしたちは一番恐れているのだ。
 わたしたちをもっとも脅かしているのは、
 暗闇ではなく光なのである。

 わたしたちはこう自問する。
 「私はこんなに利口で才能があり、はなやかでいいのだろうか?」と。
 それなのに、なぜあなたはそうではないのだろう。
 あなたは神の子供である。
 あなたの控えめな態度は世界のためにならない。
 周りの人々が不安にならないようにと縮こまっていては、
 なにも明らかにならない。

 わたしたちは自分の中にある神の栄光を
 この世に顕すために生まれてきたのだ。
 神の栄光は一握りの人たちの中にだけあるのではない。
 すべての人の中にある。
 自分の心の中の光を輝かせるとき、
 わたしたちは無意識のうちに、
 他人も同じ事をするのを許している。
 自分自身の恐怖から解き放たれれば、
 わたしたちの存在そのものが、ひとりでに他者を解き放つのだ。


 注)この方法は、一方の手でスプーンを支え、もう片方の手で曲げる方法ですが、曲げる方の手はほとんど力を入れてません。それなのに、何度やっても曲がります。大切なのは「曲がらないのではないか」と疑わないことと、気を集中させることです。訓練の仕方によっては、私たちはもっといろんなことができるようになると感じた一件でした。


 

 

| | Comments (23) | TrackBack (0)

ワーカホリック再び

 以前から気づいていた事なのですが、
私はどうも、頼まれるとNoと言えず引き受けてしまうところがあるようです。

 去年8つの非常勤を掛け持ちしていて、「これ以上増やしたら倒れるよ」と友人に言われて、この生活から早く抜け出さなくてはと思い、常勤の職についたはずだったのですが…。

 月〜土曜日の、いつもの仕事の他、病院の休診日に学生相談(4時間×3回/月)と大学の臨床助手のアルバイトが入り、さらに土曜日の午後は別の病院でカウンセリングの仕事が入り、気がつくと、休みが木曜日半日と日曜日だけになっていました。

 もうこれ以上は仕事は増やさないぞ、と思っていたのです。
 しかし、私の師匠と同じ大学の先生の紹介で、来月からまた新たに中学校のスクールカウンセラーの仕事を引き受けることになってしまいました。

 今年度残り期間の臨時採用で、4ヶ月間だけのことです。しかしスクールカウンセラーの仕事が加わると、私の休みはしばらく日祭日だけになってしまいます。

 先日、知り合いの先生(精神科医)にそのことを話したら、「Sanaさんは頼まれると何でも引き受けてしまうからなあ、もういいかげんにやめときよ。」とやんわりと諭されました。

 もちろん、気の進まない仕事は断るときもあります。でも、ことカウンセリングに関しては好きで興味があるので、ついつい「いいですよ」と言ってしまうのです。

 私はアルコールも飲めないし、他に依存するようなものもないのですが、完全にワーカホリックになっているなあと、改めて思う次第です。働いている間は楽しくて、辛いことに考えが行かないので、多少現実逃避気味なのかもしれないとも思います。

 「自分を大事に」とは人には言えるものの、自分に対してはなかなか難しいようです。


 
 
 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

鎧(よろい)を捨てる

 先週末、「自分の小さな”箱”から脱出する方法」(アービンジャー・インスティテュート著)を読みました。

 翻訳のジレンマもあるのでしょうが、書かれてある内容を本当に理解するには少々骨が折れました。とりわけ象徴として用いられている「箱」の意味を理解するためには何度も同じ箇所を読み直す必要がありました。

 この本は、一言でいうなら自己正当化イメージがどのように人間の認知をゆがめ人間関係に好ましくない影響を与えるのかを例を用いて説明しています。専門用語を全く使わずに平易な言葉で書かれていますが、ほぼベックなどが提唱する認知療法の考え方に沿っています。

 2,3日の間”箱って何?”と考え抜いたあげく、「箱」を鎧に変えると日本人には分かりやすいのでは、と気が付きました。今日はその内容の、最も重要な部分だけをご紹介したいと思います。

 人間が「自分は悪くない、間違っていない」と自分自身を正当化しようとする理由は2つしかありません。

 一つは自己欺瞞、つまり自分の本意に反した言動に対し、自分をだますことで抵抗感や罪悪感を解消するため。

 そしてもう一つは、自分の最も見たくない(嫌いな)部分に直面するのを避けるため、です。

 自分を正当化しようとすると、ありのままの自分自身では都合が悪くなります。そのため「私は正しく、思慮深く、価値のある、優れた人間」であるというイメージを作り、「私はそうする(そのように行動する)特権がある」と思いこむ必要が出てくるのです。

 その時人は「箱」の中に入る、と本は説明していますが、それはすなわち見栄やプライド、他人の評価のような「鎧(よろい)」をまとうことに例えることもできるのではないでしょうか。

 自分自身に対する歪んだ自己イメージを持つと、人間は現実の世界を自分の都合のよいようにゆがめて見るようになります。また常に正しい存在であるためには、自分だけでなく周りの人も思うように動いてくれないと困るので、他人を何かにつけコントロールするようになります。

 「箱」に入る、あるいは「鎧(よろい)」を身につけると、人は他人をもはや自分と同じ人間として見ることはできなくなります。全てが自分を中心に動きはじめ、人間関係は自己正当化のための単なる道具になってしまいます。

 さらに鎧(よろい)をまとった人にとっては、自己正当化の妨げとなる人物の存在は脅威であり、相手の欠点を過大に取り上げ、自分は被害者(犠牲者)として相手を非難して当然と考えるようになるのです。この場合、最もやっかいなのは、鎧(よろい)があると狭い自分の世界しか見えなくなるので、自分が相手に何をしているのか、それが相手との関係にどんな影響を与えるのかが全く分からなくなることです。

 この状態では、他人から矛盾を指摘されると大抵が逆ギレして攻撃するか、あるいは終始言い訳を並べて煙をまかれるかのどちらかになってしまいます。

 さて、鎧(よろい)を身につけ続けると、それは次第に体になじんで、最後には人格の一部となっていきます。本当は重くて動くに負担の大きいはずの鎧は、なじむと居心地のよさすら感じるというのです。そして鎧を身につけた人が集団にひとり現れると、それは次第に他へと伝染?していきます。つまり鎧(よろい)をつけた相手から非難や攻撃をされると、気付かない限りはこちらも同じように鎧で武装してしまうようです。そして目に見えない戦いがどちらかが降りない限りは延々と続くことになるのです。

 鎧(よろい)をつけた状態でも、人は他人に援助するなど社会的に好ましい善い行動をとることはできます。しかし、鎧(よろい)がある限りはそれらの行動は結局「自分の正しさを証明するため」であって、本当の意味で人のために何かをすることはできません。また「よい人間でありたい」と思っても、本当にはよい人間にはなれません。同じ行動でも、鎧があるだけでその動機も自己評価も全く違ったものになってしまうのです。

 鎧(よろい)は本来なくても生活できます。鎧(よろい)をたくさん着込めば着込むほど、人は自由を失ってしまいます。鎧(よろい)は人を苦しめているのに、だからといって手放すことのできない人がたくさんいるように思います。

 鎧(よろい)を捨てる、あるいは「箱の外に出る」には、2つのことが必要です。

 まず、自分の中の嘘に気づき、それと向き合うことです。人間関係の問題において、相手ではなく自分自身に原因があるのではないかと疑いはじめること、それは自分のまとった鎧の存在に気付くチャンスなのです。

 そして自分に素直に、正直に生きるように繰り返し努力することです。ありのまま、まっすぐにものごとを見ることが自分のイメージの歪みをなくすために必要不可欠なのです。

 
 この「鎧(よろい)」あるいは「箱」は、家庭や学校、社会と広範囲に見られ、人と人とのつながりを隔てている大きな問題です。自分自身に嘘を付き続けることは、自分だけでなく人をも裏切ることになるのですが、残念ながらそのことに気付いている人は少ないように感じます。

 「鎧(よろい)」「箱」という概念と、それが示す人の認知の問題は、更に人間の性質に関して非常に大きな示唆を与えてくれ、それは私の仕事や私生活における人間関係のとらえ方に重要な変化をもたらしてくれました。


 今日はもう遅い時間なので、次の機会にそのことをご紹介したいと思います。


| | Comments (3) | TrackBack (1)

« October 2006 | Main | December 2006 »