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最後まで奪えないもの

 配偶者が、経済的な締め付けをするようになりました。

 やむを得ない理由もなく、銀行口座の解約を強要しています。
生活費がきちんと支払われていることを確かめる術もありません。
一度は支払うと言ったはずの、大学院後期の授業料の支払いも拒否しています。

 生活費がきちんと支払われないと、ぴょろと2人生活していく上で様々な支障が出ます。

 今の私の体調と仕事のスケジュールでこれ以上仕事を増やすのは不可能です。体力的にも、ぴょろを育てる責任を果たすためにも、今がぎりぎりの状態です。

 授業料が支払われないと、あと半年残して卒業することができなくなります。

 これまで何年もかけて取り組んできた研究も、もう少しでやっと形になりそうなところまできていますが、これも続けることが難しくなるでしょう。

 今の配偶者には、どのような言葉も届きません。ただ一つのことしか頭にありません。

 非常に多くの人間が、同じ間違いを犯しています。力づくで自分の欲望や利己的な目標を果たそうと必死になっています。

 他人を支配しコントロールすることは、未熟な人間に一時的な快感と万能感をもたらします。よほどの自制心がない限り、人はより強い力を求めて道を踏み誤ってしまいます。自分に力を集めようとすればするほど、他人からいろんなものを奪っていくのです。

 しかし、たとえどのような強制力を持ってしても、たった一つ最後まで奪えないものがあります。

 私がどう振る舞うかは、私が決めることです。

 私は無力ではありません。

 そして私は、人を援助することにおいて決して妥協はしません。


 

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偶然の産物

 先週金曜日、久しぶりに姫路で1日仕事をしました。

 その日は結構忙しく、6時41分ののぞみに乗る予定だったのに、クリニックを出たのが何と6時33分でした。

 姫路駅ビルから新幹線ホームまで、全速力で走ったのは言うまでもありません。おかげで何とか間に合い、新幹線に乗り込むと…岡山止まりというのに自由席は人でいっぱいで座る席がありません。

 20分後に岡山に到着。そこで別ののぞみに乗り換え、指定席に座るとほっとして知らず知らずのうちに眠りに入ってしまいました。
 
 社内アナウンスの声で目を覚ますと、広島駅にちょうど停車するところでした。駅のホームで完全に停車したときにふっと窓の外を見ると…

 すぐ目の前に、鳥取砂丘の、見渡す限り一面チューリップの風景がそこに。もちろん、駅ホームの看板です。

 不思議なことに、何の文字も宣伝文句もない写真だけの看板で、目の前にあるとまるで本物の景色のように見えるのです。色とりどりのチューリップが満開で、それはそれは美しい写真でした。

 駅ホームの看板はたくさんありますから、たまたま座った場所と看板の位置が一致しただけです。偶然と言えば偶然なんですが、最近チューリップの話題をだしたばかりでしたし、もしかしたらこれは神さまの粋な計らいだったのではと考えてみるのも悪くないと思いました。


 

 

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発想の転換~発達障害の診断に関わる全ての専門家へ

 木曜日から急に忙しくなり、更新が大分ずれ込んでしまいました。
その間に、面白いこともありましたが…それはまた後日ということで。

 昨日は朝から夕方まで、いつも所属しているところとは別のゼミの夏期研修に参加してきました。

 この夏期研修は修士・博士の学生の研究発表の場で、今回は時間をもらい私も「親子アスペ」の問題について発表しました。(発表の内容はこれから記事にしていきます)

 発表のために、アスペルガー症候群の診断の歴史的な流れや、診断・治療の問題点や社会支援の課題について調べていてあらためてこの障害の複雑さを認識しました。

 ゼミで出た質問は、「なぜアスペルガー症候群の親子関係への援助が必要なのか」というものでした。

 特にアスペルガー症候群の親自身が困っていなくても援助が必要なのかどうか、というところを重点的に聞かれました。

 その時に、同じゼミの同期生の女性が、ぼつりと、

 「本人が困っていなくても、周りが結構困っていることが多いんだよね」

 私は、目に見えて問題がないから援助が必要でないということにはならない、と答えました。むしろ私たちにすぐに見えないところに大きな問題が潜んでいる可能性があり、目で見ることだけを信じないほうがいい、とも言いました。今問題がないから、これからも問題が起こらないとは絶対に言えないのが、この障害の難しいところです。アスペルガー症候群の援助とは、人間の発達段階を考慮しすこし先の見通しを立てながらやる必要があるのです。

 アスペルガー症候群について学び始めた頃、私はよく精神科医と意見が合わずに悩んでいました。アスペルガー症候群について知れば知るほど、精神科や心療内科を受診する患者さんの中に当てはまりそうな人がいるように思えたので、最初は素直に意見を言ってみて、そのたびに嫌な顔をされました。

 自分の出した診断にケチをつけるのか…とあからさまに言われることはそんなに多くありませんでしたが、「自分はそうは思えない」とあっさりはねつけられることがよくありました。

 その後、幸運にも様々な精神疾患や精神的な問題を抱える患者さんの心理検査や面接をこなすなかで、どうして精神科医と意見が合わないのか、その理由がはっきり分かってきました。

 同じ患者さんに対し、診察する医師が異なると医学的診断が異なることはよくあることです。

 精神疾患の診断は、患者さんの今の症状を中心に見立て(査定)を行い、患者さんの示す一連の症状が診断基準に合うかどうかで診断を確定する、いわゆる標準化という方法がとられています。診断基準は、大多数の患者さんが共通に抱える問題や症状によって決められているのです。

 しかし実際には、診断基準にぴったり当てはまらない、非定型と呼ばれる症例も少なくありません。また、同じ症状を共有する複数の精神疾患があるため、いったいどっちの診断が適切なのか、迷うケースも多々あります。大学病院でカンファレンスに参加していると、うつなのか、統合失調症なのか、はたまた人格障害なのか、と診断が確定せず延々と議論が続くことも珍しくありません。あるドクターの診断に別のドクターが物言いをつけることは、特に大学病院のような経験年数がばらばらで大所帯な環境では、よく見かける光景です。

 大学病院での体験から、診断が人によって異なるのは、同じ患者さんを別々の角度から見ているからだ、と分かりました。

 精神科医と私で意見が合わなかったのは、同じ患者さんの症状に対する見立て(視点)が違っていただけだったのです。

 アスペルガー症候群や高機能自閉症(広汎性発達障害)の診断、特に大人になってから診断を受けるケースで精神科医と意見が食い違いやすいのは、診断基準自体の問題も大きいです。広汎性発達障害全般が、DSM-IVでは「子どもの精神疾患」のカテゴリーに入れられていて、もともと発達障害の治療経験が少ない医師の中には、大人になって障害が見つかることもある、ということが分かっていない人もいます。

 また、今のアスペルガー症候群の診断基準を厳格にあてはめようとするなら、基準にぴったり当てはまらない、診断上は、非定形広汎性発達障害(PDD-NOS)に入れられてしまうケースの方がはるかに多いはずです。成人になって診断される人たちというのは、生きにくさを抱えながらも何とか思春期までを乗り越えてきた人たちであり、障害が軽度であるか、あるいは生活環境が彼らに非常に合っていると、社会人として経済的に自立できる人たちが多数含まれています。DSM-IVの基準を完全に満たすなら、社会的自立は極めて困難です。だから診断基準にこだわりすぎると「仕事ができているのなら、アスペルガー症候群(または高機能自閉症)のはずがないだろう」という発想が生まれやすくなります。

 全般的に、発達障害の診断に他の疾患ほどの正確さが要求されているとは思えません(適切な診断は必要ですが)。LD、ADHDと広汎性発達障害が診断上重複することも、診断基準の成り立ちを考えれば十分にあり得ることです。高機能自閉症なのかアスペルガー症候群なのか、きっちりと区別することに実生活上何か意味があるのでしょうか。実際にはどちらの診断がついても、日常生活の困り事も抱えている問題も変わりません。

 自閉症スペクトラムを適切に発見し診断するには、2つの点で発想の転換が必要です。

 まず、診断基準以外の症状を見落とさないことです。自閉症は社会障害・コミュニケーション障害・想像力の障害の3つ組の障害だけでなく、もっと生理的な問題を持っています。少なくとも現在のDSM-IVの基準では、知覚過敏や運動機能の障害については全く記されていません。また、非常に多くの当事者は、低体温・発汗などの温度調節機能の障害、低血圧症や睡眠障害などの自律神経症状を持っています。診断基準に記載されていなくても、自閉症の診断に重要だと思う症状の有無を必ず明らかにしておく必要があります。

 さらに、統合失調症、気分障害、各種人格障害などとの判別のためには、視点を広げ、症状以外の問題にも注意を払う必要があります。生育歴、養育環境、学力などの知能の程度、家族との関係、学校・職場などの集団生活における問題の有無など、多面的な角度からの情報収集と、可能な限り家族からの聞き取りが必要です。

 つまり患者さんの主訴や主症状に焦点を当ててそれ以外のものを除外しながら診断するという従来の考え方ではなく、核となる症状に最初から焦点を当てずにそれ以外の症状や問題を含めた上で、再度主症状を見直してみて診断するという考え方が必要なのです。
 
 次に、診断することの意義を考える必要があります。患者さんが診断を受けることで得られるものと失うものが何なのか、また診断することが患者さんの日常生活にどういう影響を与える可能性があるのかを考えなければなりません。そして、PDD-NOS(不特定の広汎性発達障害)だろうがアスペルガー症候群だろうが、自閉症スペクトラムに当てはまる限りは、やることは変わらないという姿勢を持つ必要があります。

 また、本人が全く困っていなくても周囲の人間が明らかに困っているなら立派に障害である、という発想も必要だと思います。特にアスペルガー症候群のケースは、本人を診察室で見ただけでは分からないことがたくさんあることを念頭に置いた上で面接を進めていくことが大切です。診断で大切なのは、正確な診断名がつけられるかどうかということよりも、本人の特徴、つまり何が得意で何が苦手で、どのような問題を抱えやすい傾向があるのか、そして診断が確定した後に、とりもどせるものと取り戻せないものが何なのかを明らかにすることでないでしょうか。

 さて、少なくともアスペルガー症候群について取り組み始めた最初の頃は、そんな風であちこちで壁にぶちあたっていましたが、私自身もきちんと研究論文などを調べ、次第に医学的な裏付けに基づいた説明や反論ができるようになってきて、理解を示してくれる精神科医も少しずつ増えてきています。

 その結果、アスペルガー症候群と他の精神疾患の鑑別のための検査や、診断のための面接を任されるようになり、日が経つにつれますます忙しくなっていくのでした。


 

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花が教えてくれる、大切なこと

 2日経って、やっと考えがまとまりました。
次に控えている記事もあるので、先をすすめます。 

 チューリップの例えは、初めは5,6歳くらいの年齢の子どもに認知の働きを分かりやすく教えるために考案したものです。発達上、自分と他人の気持ちや立場が本当に理解できるようになるのは9歳前後ですが、小学校に上がる少し前くらいから、未熟ながらも自他の区別がつくようになり、自分の気持ちを言葉で表現する能力が発達していくので、分かりやすい説明ができれば、自分の気持ちがどういう風に働くのかを少しは理解することができるのです。

 しかし実際には、親子関係に問題を抱える大人にこのたとえ話を使っています。主に1歳~3歳くらいの子どもを持つお母さん向けに、です。

 乳幼児健診の子育て相談にかり出されるようになって、「ご飯を食べない(激しい偏食がある)」「一時もじっとしていない」「夜眠ってくれない」…といった、子育ての様々な悩みを聞いています。もちろん、その中には確かに多動や自閉傾向が疑われる子どもも、40人に1人くらいの割合で見つかりますが、発達上の問題というよりは、お母さんの受け止め方に多少問題がありそうだなというケースがほとんどです。

 一言で言うと、ゆとりがない人が多いなと感じます。例えば言葉の発達が遅れている、と相談に来られたお母さんに、普段家で子どもとどういう過ごし方をしているのかと尋ねると、子どもの好きなビデオを何度も繰り返し見せています、と答えます。そこで、「ビデオを見せている時、お母さんは何をしていますか」と聞くと、「ビデオを見ている間はじっとおとなしくしてくれているので、その間に家のことをします」

 子どもと一緒に遊んだり出かけないのですか?と尋ねると、「子どもとどう遊んでいいのか分かりません」…それでは、と「子どもに話しかける時間は、一日の中でどのくらいありますか?」と尋ねると、「さあ、あまり話していませんね」

 子どもの事をどうしてもかわいいと思えない、という相談も、何度か受けました。「子どもが泣くと、イライラしてたたいてしまうんです」、とあるお母さんが私に話すので、「イライラしないようにするには、何が必要だと思いますか?」と尋ねると、「子どもが機嫌が良ければ、別にイライラしません」

 いや…そうじゃなくて、”泣いてもイライラしないようにするにはどうすればいいですか”、と言いたかったんですが、と話すと、お母さんは「とにかく子どもを泣かさないようにすればイライラしないですよね」

 最初の例は、子どもに十分な言葉かけを普段からしていないにもかかわらず、子どもの言葉が遅れているのは何か子どもに問題があるのではないか、と相談にきたお母さんの言い分ですが、それはちょうど、必要な養分をあまり与えていないのに、チューリップがうまく育たない、咲き具合がいまいちだと言っているようなものです。

 次の例は、子どもさえ泣かなければイライラしない、と思っているお母さんのことですが、子どもは理由があって泣いているのであって、何で泣いているのかをあまり考えずに泣くこと自体を非常にストレスと感じているととらえることができるでしょう。

 それはちょうど、チューリップの色や形など、何か気にいらないところがあってイライラしているのに、それはチューリップに問題があるからだと言っているようなものです。
 
 こういう例に限らず、実に多くの人が、自分以外のものを、自分の都合のいいように動かそうとしているように感じます。それはちょうど、チューリップに、「自分が咲いて欲しいときに、自分が望むように咲いてくれ」と言っているようなものです。 

 チューリップは時期が来ないと咲きませんし、チューリップとしてしか咲きません。私たちにできるのはせいぜい、ちょっと咲く時期をずらすとか、大きめの花を咲かせるとか、色のバリエーションを増やすことくらいです。もし期待するような結果が出なくても、それはチューリップのせいではありません。仮にチューリップのせいにした所で、何も得るものはありません。

 チューリップにも、個体差があります。同じプランターに同時に植えても、花が咲く時期は少しずつ違いますし、背丈も、花の色も、微妙に違います。しかし、その違いはとても些細なことでしかなく、花が咲いてくれればそれで十分だと思えれば、違いは全く問題にはなりません。

 ところが、実に多くの人がこの些細な違いにこだわり、まるで大きな問題のように捉えてしまっています。全体としては順調に成長しているのに、満足できない人が多いように思います。これもチューリップ(子ども)のせいではありません。時期が来るとちゃんとできるようになるのですが、そこまで待てないのでしょう。

 
 最後に、もう一つ別の見方をしてみましょう。

 前回も少し触れたように、チューリップが「私はチューリップでいるのはイヤだから、バラになりたい」と言うでしょうか。チューリップはチューリップとしてしか生きることはできませんし、受けた自然の恵みを享受しつつ、ただ静かに咲いているだけです。チューリップが他人に好かれたいとバラになろうとすることはできません。バラにならなければ愛されないということもありません。チューリップのままでも、この花を愛する人はたくさんいます。

 しかし多くの人が、自分以外のものになりたいと望み、自分ですら都合の良いように変えられないかと考えているように思います。どんなに他人に気に入られようとして自分以外のものになろうとしても、結局は自分自身としてしか生きることはできないのです。せめて私たちにできることは、精一杯生きることだけです。その姿を見て、愛情を感じる人がかならずいるはずです。自分を誰かの好みに変えようとするよりも自分の良いところを生かす方が、より豊かな人生を送れるのではないかと思います。


 

 
  

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トラウマは人を孤独にする

 「花はただ咲いているだけ」の次の記事を書こうと3日間奮闘したものの、うまくまとめることができずにいます。頭の中にはアイデアが断片的に浮かんでいても、それをつなげることができないんですね。

 6月の下旬に、看護学生さんたちに、「燃え尽き(バーンアウト)症候群」のビデオを見てもらいました。その中で取り上げられていたのがベテラン看護師さんの例で、一生懸命に仕事に打ち込んでいた人が、次第に疲弊しある朝とうとう起きられなくなり、仕事に対する興味も意欲も全くなくなってしまう、というストーリーでした。

 今の私は、かなりこれに近い状態です。今まで意欲的に取り組んでいたはずのカウンセリングという仕事が、多少重荷になってきています。朝目が覚めるとものすごい不安が襲ってきて、全身がだるく起きあがるのに時間を要します。

 それでも、仕事にはきちんと行っています。ケースの数を減らしてもゼロにすることはできません。今すぐに対応しなければならない人をのぞいては、少し待ってもらうようにお願いするのが今の私にできる精一杯のことかもしれません。

 私は今、2つのトラウマを抱えていて、完全にfull PTSD(つまり医学的にPTSDと診断できる状態)にあります。一つは配偶者にまつわること、もう一つは仕事上のことです。後者は、前者の連鎖反応として起こったことで、一応解決は見ているのですが、私の信念を揺さぶるようなショックを受けました。

 そうして、PTSDの二次的な問題として、うつ状態に陥っています。

 PTSDは、一般の人が考えているよりはるかに深刻な問題を引き起こします。トラウマのすべてがそうだというわけではありませんが、単にショックを受ける以上の衝撃的なできごとを体験すると、脳は機能不全の状態に陥ってしまうのです。

 思い出したくないのに、繰り返し思い出す、夢に見る、思い出すと感情も身体反応も全くそのときと同じ状態に戻ってしまうといった「侵入的再体験」、思い出させるような刺激に近寄らない「回避」、異常に用心深くなったり、音や刺激などの普通なら気にならないことにも敏感に反応し、不眠や不快な身体症状を示す「過覚醒症状」は、説明をすることも、理解することもそれほど難しくはありません。

 しかし、現実感がなくなり、周りの世界と自分が切り離されたような感覚になる、いわゆる「解離症状」は、なかなか説明が難しく、単にぼーっとしているだけ、と見られることが多いです。

 これがものすごく辛い症状であることを、想像できる人はそれほど多くないと思います。

 私自身を例に挙げると、近くのスーパーに買い物に行くために横断歩道を歩いていて、自分が歩いているという感覚がなく、周りにある信号や並木道、行き過ぎる通行人や走っている車といったものも現実感が全くなく別世界にいるような感覚になるのです。時々なぜ歩いているのかすら分からなくなることがあります。当然ながら、時間の感覚もあいまいになります。過去と未来と現在がつながらなくなるのです。

 またそばに人がいても、たとえその人が親しい人であっても、自分だけが切り離されてしまったような、人とのつながりがなくなってしまったように感じるのです。何をしていてもどこにいても、たとえようのない孤独感を感じてしまうのです。

 さらに人によっては、自分が外から自分を眺めているような感覚(離人感)が出てきます。

 解離症状にまで至らなくても、トラウマは人を孤独にします。ショッキングなできごとを体験してから最初の1週間〜10日くらいの間、人はできごとを積極的に話そうとします。体験から日が浅いこともあって、話を聞く方もある程度協力的になれるため、この時期にきちんと話を聞いてもらうことができ、安心感を持てれば回復は早いです。

 しかし10日をすぎると、人は逆に体験を話せなくなってしまうのです。話すことは否応にでもできごとについて思い出させてしまうからです。話せないけれどもまだいろんな気持ちを抱えている状態になるのです。できごとが起こってから時間がたつにつれ、その傾向は強まります。体験をした当事者以外の多くの人にとっては、できごとは時間とともに過去のこととして捉えられるので、当事者がまだトラウマによる様々な問題を抱えていることに対し、「過ぎた事は早く忘れなさい」「いつまでも引きずっていないで元気出して」などとつい励ましてしまいます。

 そういう一つ一つの言葉が、トラウマを抱える当事者をさらに傷つけ追いつめてしまうのです。誰も思い出したくて思い出すわけでも、好んで引きずっているわけでもありません。早く忘れたいし、前に進みたい気持ちは持っています。何故回復できないのか焦りも持っています。しかし、自分の体験や気持ちを話そうとするとうまく言葉にできなかったり、話すことで相手が不快感を抱いたり自分から離れていってしまうのではないかと不安になって、話したいことが言えなくなってしまうのです。

 PTSDにうつの合併する割合が高いのは、このような孤独感の存在も理由の一つだと思います。

 トラウマを抱え孤独を感じている人に必要なのは、「共感と保証」です。

 思い出したくない、まだいろんな気持ちを抱えているけど話せない、辛い気持ちでいることを理解し、そのままでいていいと保証することは、トラウマを抱える人に安心感を与えます。孤独感から抜け出せるかどうかは、安心して自分自身でいられる感覚を取り戻せるかにかかっています。

 仕事柄、他人のケアに力を注いできましたが、「辛いよね」の一言を一番必要としているのは、自分自身だったのかもしれません。


 

 

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花はただ咲いているだけ

 気力のないまま、週末に入りました。
仕事は必要最低限に抑えて、それ以外は家でぼんやりしていることが増えました。こころが枯れる、というのはこういうことなのかと思います。何をやっても全く楽しめない日々が続いています。

 おとといの夜、ふと考えました。

 チューリップの花を見て、きれいだなと感じる人もいるし、興味がなくて何も感じない人もいるでしょう。チューリップの花にまつわる良い思い出がある人にとっては、花を見ることは記憶とともに幸せ感や喜びといったよい気持ちを起こさせ、逆に悲しい思い出がある人にとっては、そのときと同じ気持ちを感じてしまうから見るのが辛いと思うかもしれません。また、別の人は嫌いだから見るのもいやだと感じるかもしれません。

 しかし、人が何をどう感じようと、チューリップの花はただ咲いているだけなのです。私たちはただ単に、花に自分の感情や思いを映し出しているにすぎません。

 それでは、チューリップとアザミの花は何が違うのでしょう。

 アザミはチューリップほどの見かけの美しさはありませんし、トゲもあります。チューリップは多くの人に愛される花であるのと対象的に、アザミを好きだという人は非常に少ないかもしれません。

 しかし、どちらもただ静かに咲いているだけなのです。しかもそれぞれ咲くにもっとも適した領域で咲いているにすぎません。チューリップがアザミに向かって、「あなたは嫌われ者だからここで咲いてはいけない」なんて言うことはありません。どんな花でも、たとえ毒があっても、自然の法則に基づいてここに存在しているのですから。

 人間は自分以外のものに、実にいろいろな感情や思いを投影しています。ある人が嫌いだというのは、本来はそういう感情や思考の産物、つまり主観にもとづく評価であって、実際の相手の状態とは無関係なことが多いです。同じ人物でも人によって評価が分かれるのは、その人のどこを見ているかにもよります。多くの場合、人間は限られたところしか見ずに、そのときの感情や思考で人を判断しているにすぎません。

 確かにあわない人、苦手な人はだれにでもいます。それでも、その人がそこに存在することを受け入れられるには、自分が相手に映し出している感情に気づかなければならないのです。多くの場合、相手の嫌いな部分は、実は自分自身の中にある受け入れがたい部分でもあるのです。相手のせいだと思っていることが、実は自分自身の問題であることに気づくことができれば、相手がたとえどう振る舞おうとそのために自分の感情に振り回されることなく、静かな気持ちで受け止められるようになるでしょう。

 私たちの周りでは、時々予期しない、あまり起こってほしくないできごとが起こります。しかし本当はできごとはあくまでも中立であって、起こってほしくないというのは単に私たちの思いを反映しているだけです。できごとをどうとらえ感じるかによって、その後の行動もそこから受け取る結果も全く違ったものになります。「こんなことが起こらなかった方がよかった」と思うのか、あるいは「こういうできごとがあったからこそ今の自分があるのだ」と思うのか、その違いはできごとの中身にではなく、それを体験する人間の受け止め方の違いなのです。

 最後に、チューリップもアザミも、好きか嫌いかではなくただ限られた命を精一杯咲いているだけです。

 人間も生まれるときから自分を嫌いな人はいません。それは生まれてから今までのどこかで身に付いた考えにすぎません。またすべての人に好かれる必要もありません。与えられた命の中で、できることを淡々と続けていきながら、美しいものを美しいと感じ、善いものを素直に受け入れるこころを育てていくことが、一番大切なことではないかと思います。

 なぜこういうお話をするのか…は次の記事で。


 
 

 

 

 

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気力の限界

 体調が悪いです。

 毎日のように、悪夢を見ますし、睡眠時間がバラバラです。
自分の身体が自分のものでないような気がすることがあります。

 寝ていると、突然息苦しくなり心臓が早撃ちしてこのまま倒れて死んでしまうのではないかと思うような、ひどいニック発作も時々起こります。

 今までごく普通にできていた、例えば電話で誰かと話すとか、TVを見るといった単純なことをするのにたくさんのエネルギーが必要です。

 何があっても、自分のやるべきことはきちんとやらなくてはならない、と気力に任せて自分自身にむち打つようなことをやってきた結果、今はその気力がどうしても沸いてこなくて何も手につきません。

 いただいたコメントやメールへの返事は申し訳ありませんがもう少しお待ち下さい。

 やはり気力だけで身体を動かそうとするのは無理があったようです。やはり体力と同様、気力にも限界というものがあるのでしょう。


 

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アスペルガー症候群:最も分かりにくい障害(9)

 社会性の障害については、さらに述べておかなければならないことがあります。

 アスペルガー症候群がいわゆるカナーの提唱する自閉症に比べ理解を得にくいのは、その多様性にあります。

 社会性という観点からは、アスペルガー症候群にはいくつかのサブグループが存在するものと思われます。

 まずウイング博士の提唱する「孤立型」に相当する、人との接触をあまり好まず、他人への関心をあまり示さないグループがあります。カナーの自閉症に近く、情緒的な交流の難しい人たちです。しかし、興味を中心とした人との関係を持つことはでき、ある程度の社会スキルが育っていけば、社会的な自立が可能なグループです。集団の中で、協調性がない、孤立していると評価されながらも、マイペースを保っている人たち、と言ってよいでしょう。

 彼らにとって最もストレスなのは、「みんなと仲良くする、周囲に合わせて行動する」ことです。したがって、集団の中ではこのような協調性を求めるよりは、自分の役割を理解し、それを果たせるような援助が必要であり、彼らがときどき一人で過ごす時間や空間を持てることが大切だと思います。

 次に、他人への関心や接触をある程度持てる人たちのグループがありますが、これは3つに分けられると思います。

 1)他者への感受性が低く、自分に対する感受性の高いグループ
 2)自分と他者に対する感受性が極めて高いグループ
 3)他者への感受性が高く、感情刺激に爆発的な反応を示すグループ

 1)は、いわゆる「積極奇異型」に似ています。人と関わりたい動機は十分で、それなりに接触もするのですが、相手の立場や気持ちへの感受性が低く、状況に合わない、あるいは相手を不快にするような言動を繰り返すため、対人関係でしばしばトラブルを起こすグループです。彼らの行動が目立ちやすいため、いじめの標的になりやすく、また相手がなぜ不快感を示しているかが十分に理解できず、自分勝手と誤解されやすい人たちです。

 彼らは相手の気持ちを本当には理解していないことが多く、また自分の都合で相手を動かそうとすることがあります。さらに、相手の言って欲しくないことを言ったり、して欲しくないことをしていることを理解できずに、相手がなぜ不快感を示すのか、その理由がなかなか分かりません。それなのに相手のしたことに敏感に反応しやすいところがあり、周囲からは悲劇のヒロイン(ヒーロー)と捉えられてしまうこともあります。

 カウンセリングの現場では、コミック会話など構造化された方法で問題の起こった状況や相手の立場を考えていくという方法をよく用います。しかしここで前述の内省力が育っていないと、常に相手に問題があり、自分は被害者であるという感情を持ちやすく、他罰的になってしまうという問題が生じます。

 2)は私が勝手に「敏感型」と呼んでいるグループで、ある程度他人への気遣いを示し、自分自身を振り返る能力も持ち合わせていますが、相手の反応やそれに対する自分自身の反応に極めて敏感で、特に感情刺激に過剰に反応する特徴を持っています。このグループに属する人たちは、非常に傷つきやすく、トラウマになりやすい一面を持っています。

 感情コントロールがあまり良くないと、うつになりやすいのがこのグループの特徴です。1)に比べると他者へ合わせようとする力はあり、また人前では感情をあまり出さず自分のふるまいにも過剰なほど注意を払うので、一見社会性の障害が軽度とみなされることがよくあります。しかし、対人関係に強い不安(自分が人に迷惑をかけているのではないか、などといった)を持ち、1)とは反対に自分を責めやすいところがあります。

 敏感型のグループに対しては、「ほどほどの自分を受け入れる」ための援助を行います。またうつと自傷行為に対する予防あるいは早期介入が必要です。このグループに属する人たちについては、目立った社会的な問題が生じていなくても、見えないところで非常に苦しい思いをしていることを治療者は十分に理解する必要があります。

 3)はこれも勝手に「激情型」と呼んでいるグループです。1)と同様、他者とは積極的に関わろうとしますが、1)よりも他人の気持ちや立場には敏感です。しかし、相手に合わせたり思いやるというよりは、相手がどう反応してくるかに敏感と言った方がいいでしょう。激情型グループに属する人たちはさらに相手の言動に極端な反応を示します。1)グループはどちらかというと愚痴っぽく自分が満足するまで同じ事を何度も繰り返し話す人が多いですが、激情型は、自分に嫌なことをした相手を直接攻撃し、それも怒りの感情や激しい言葉(ホントに身も蓋もないような)をぶつけ、感情が高ぶると手も足も出てきて、収集のつかない状態になってしまうこともあります。そうかと思うと逆に、冷たく無視することもあります。

 激情型グループの人たちは感情や行動への自制が困難で、一度爆発してしまうとその後はまったく静かになり、何故こんなことをしたのか分からないということが多いです。他人を傷つける危険性だけでなく、自傷の危険性も高く、医学的診断上、人格障害、双極性障害(そううつ病)と診断されることもあります。

 このグループに対する心理的な支援は非常に困難です。感情コントロールの方法を身につけるには、自分自身の感情と向き合い、それを表現する力がある程度必要ですが、彼らにとってはこれが最も難しいからです。さらに彼らは、相手の感情や態度を適切に把握しないうちに衝動的に反応してしまいます。相手の態度が本当は彼らをバカにしたものではなくても、彼らが「こいつはオレをバカにしている」と認知してしまうと、次の瞬間、相手を罵倒したり暴れたり、という行動に出てしまうのです。おそらくこのグループに属する人たちのほとんどはADHDの診断基準も満たしており、内省力を育てるのがもともと困難なのではないかと考えています。

 最後に、育ちの問題について触れておきます。

 アスペルガー症候群は発達障害であり、養育者が適切な養育を行っても上記のような様々な情緒・行動の問題を抱えてしまう人たちがいます。しかし、適切な養育が行われなければ、さらに問題が悪化することを念頭に置かなければなりません。1)のように相手の立場が十分に理解できずに積極的に関わるグループや3)の激情型グループの人たちは、養育者にとって非常に対応が難しく養育者が彼らの問題をきちんと理解していないと虐待が起こりやすくなります。また、非常に過敏な2)のグループの人たちは、家族関係のトラウマを持ちやすく、それが後に様々な精神的・身体的な症状をもたらします(特に不安障害やうつが多いことに注目すべき)。

 アスペルガーの人たちは、周囲が適切に関わることができれば遅れながらも愛着を形成し、また自分や相手の感情を理解し適切に表現するスキルを身につけることができると、ある程度安定した対人関係を作ることができます。内省力はほとんどは対人関係の体験を通して身につくもので、自我の形成に必要な愛情や肯定的な体験をある程度持っていることが条件になるのです。したがって、自分を振り返る力を育てるには、早期に障害を発見し、子どもの抱える問題に応じた根気強い対応が必要になります。…といっても、彼らが状況を理解し適切にふるまう工夫をすることを覚えるための援助であって、相手の感情や葛藤の理由を定型発達の人たちと同じように理解できるようにならなければならないということではありません。ただ、その工夫ができるようになることで、いじめをはじめとする人間関係のトラブルを可能な限り防いでいくことはできるでしょう。

 アスペルガー症候群の社会性の障害は、彼らの生きにくさの土台にあるものですが、彼らだけの問題というわけではありません。育てる側に、ある程度の知識や彼らの抱える問題を適切に理解できる力、そして彼らの良い点を伸ばし、うまく彼らをサポートする姿勢が必要です。したがって、養育の責任を、単に保護者だけに求めることは適切ではありません。コミュニケーション同様、基本は家庭にありますが社会性を育てるには第三者、しかもいろんな人たちが介入していかなければならないのです。

 極めて孤立的でない限りは、アスペルガーの人は他人に理解され、受け入れられることを望んでいます。自分の事をある程度理解できる人であれば、自分の言動が他人に与える影響についても理解し、それ故に他人に受け入れられるために様々な我慢をしてしまうのです。しかし、理解された経験を持つことができれば、それは大きな安心となり、自分自身への肯定的な感情へとつながります。

 最も彼らにとって不幸なのは、ネグレクトの状態に置かれることです。感じ方・考え方が違っていても、必要なものは同じです。単に保護者だけでなく周囲との交流が乏しく、かつ彼らが求めるものがほとんど満たされなかったまま成長する過程で、多くの人は他人から注目されることで必要を満たすことを覚えていきます。それが良い行動での注目ではなく、反社会的な行動、あるいは周囲が予想しない行動であっても、彼らにとってそれが唯一他人から注目される手段になってしまえば、彼らはそれを繰り返します。

 ネグレクトの状態で成長した人のほとんどは、情緒的に極めて未熟であり、内省力も育っていないため、自我が極めて脆く、触法行為があった場合に通常の方法で矯正することが困難だということは前述の通りです。さらに自分の思考や感情を他人に鏡のように映し出し、あたかも自分でなく他人がそれを持っていると考えることで脆い自我を守ろうとする傾向が強く、第三者の声が最も届きにくく、援助者に対しても攻撃性を示す危険性があります。

 このように、アスペルガー症候群は、ある部分では育ちの影響を非常に受けやすいと考えておくことが必要だと思います。

 次は…来週かな?

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アスペルガー症候群:最も分かりにくい障害(8)

 アスペルガー症候群の記事の続きを久しぶりに更新します。本当は7月中旬にほとんどできあがっていたのですが、様々な事情で遅れ、内容も少し変えました。 

 社会性の障害に関して、私見や新しい仮説などを含めながら進めます。

 アスペルガー症候群の社会性の障害に関する定義は、いまだに議論の余地があると言われ、著書により若干の違いがあります。歴史的には、アスペルガー自身が提唱した「自閉的精神病質」、カリーナ・ギルバーグ(1989)の定義、サトマリら(1989)の定義、WHO(1990)の定義、そしてDSM-IVの定義が主に知られています。

 DSM-IVでは、「社会的相互作用の質的欠陥」として、
 1.目と目で見つめ合う、顔の表情、身体の姿勢、身振りなど、対人的相互反応を調節する多彩な非言語的行動の使用の著明な障害
 2.発達の水準に相応した仲間関係を作ることの失敗
 3.楽しみ、興味、達成感を他人と分かち合うことを自発的に求めることの欠如
 4.対人的または情緒的相互性の欠如

 …を基準Aとして設けています。

 私個人としては、思春期の子どもたちや、多分に内向的で社会不安の強い大人の人たちと接してきて、上記のような体験は、アスペルガー症候群以外の発達障害や精神疾患でも起こりえるし、「欠如」と言われてもどの程度できなければ障害になるのかというはっきりした線引きがあるわけではないので、ちょっと分かりにくいと感じています。

 ローナ・ウイング博士は、社会性の障害を、孤立型、積極・奇異型、受動型、形式張った大仰な型の4つに分けていますが、それほど厳密にタイプ分けする必要性があるとは思えず、見知らぬ、慣れない環境の中で彼らの取りやすい行動パターンとして理解する方が適切ではないかと感じます。

 そもそも社会性とは何なのか、というと「他者と適切な社会的・情緒的なつながりを維持し、自分も他人も大切にする能力」というところになるのでしょう。ですから当然のこと、「年齢相応であり、かつその時の状況に見合ったもの、あるいは社会的に望ましいものかどうか」という基準で考えていくのが妥当ではないでしょうか。

 そのように考えていくと…アスペルガー症候群の人たちの社会性の障害とは、単に当事者の社会的行動の問題というだけでなく、ある部分では周囲がどれだけその人の独特なふるまいを受容できるかによっても、問題と捉えられるのかあるいは個性として捉えられるのかといった差が生じているのではないかと思います。実際には、本人が対人関係の様々な経験から何をどう学び、社会的スキルを発達させていったかというプロセスを見ながら、彼らの持つ社会性の障害の程度を判断する必要があります。

 アスペルガー症候群の社会性の障害には、「中庸と柔軟性に乏しい」という特徴があります。思考や行動が極端から極端に飛びやすく、臨機応変に対応するのが難しく、そのために問題がこじれやすいところがあるように思います。統合失調症の破瓜型の患者さんにも同じような特性が見られることがありますが、アスペルガー症候群の場合、ある特定の状況では全く目立たないのに、状況が変わると顕著に表れるといったdiscrepancy(矛盾点・ギャップ)があります。見る人によって評価が分かれるのも十分に理解できるところです。

 ここからは完全な私見であり、あくまでも仮説ですので、その心づもりでお読み下さい。

 アスペルガー症候群の社会性の障害を、私なりの視点から見ると、

 1.空間認知などに基づく、proximity(人との距離)の問題
 2.問題解決能力、決断力の問題(いわゆる”実行機能障害”を含む)
 3.感情のコントロールと共感性(感情認知)の問題
 4.環境への適応性の問題

 …に分けることができるのではないかと思います。

 まず人との距離については、近すぎるか逆に遠すぎるかどちらかで、適切な距離を保ちにくいという特徴があります。また、アスペルガー症候群の人たちが心地よいと感じる人との距離は、定型発達の人にとって逆に不快・不安感を生じさせるものであったりします。

 さて、問題を適切に解決するためには、ものごとを相対的・体系的に見る能力と、ある程度の計画性が欠かせませんが、アスペルガー症候群の人の考え方はしばしば非常に限られた部分へのこだわりと、一部から全体を推移する能力への著しい偏りから、問題の本質を適切にとらえることができなくなり、その結果として混乱や思いこみを生じてしまうことがあります。また、前頭前野の機能障害があれば、判断システムに狂いが生じることはすでに知られており、アスペルガー症候群についても、ものごとをすぱっと決められない、あるいは自分で判断できない、決めたことをなかなか実行に移せないと感じている人はかなり多いと思われます。

 昨日も述べたとおり、アスペルガー症候群の感情コントロールの仕方には様々な問題があります。刺激に反応しやすく、感情を爆発させやすいグループだけでなく、逆に極端な感情抑制を示す(つまり感情を抑え込みすぎてしまう)グループも存在します。二次的にうつなどの気分障害が多いのは周知の事実ですが、気分の波が大きく、気分に引きずられてしまう傾向は確かに認められます。

 アスペルガー症候群の人は、全般的にストレスに弱い傾向を持っています。そして溜まったストレスを極端な形で表出するか、あるいはストレスを回避するためにさまざまな方法に依存する傾向が見られます。アスペルガー症候群、特に女性には、摂食障害が併存することが時々あります。それは感情と食欲の中枢が非常に近い場所にあることを考えても納得のいくことです。

 共感性の問題は、コミュニケーション障害と関連しています。表情や態度といった、非言語的なサインをどう捉えるか、また相手の話のどこを聞いているのかによっても変わってきます。しかし、非常に共感性に乏しいグループはごく一部で、大半はある程度の共感性は持ち合わせているようです。ただ、彼らは頭では理解していても、思考と感情のつながりの弱さから、本当に自分のことのように感じるのは苦手なようです。

 最後に環境への適応の問題ですが、これも非常に適応に時間がかかる人からそうでもない人まで様々です。またうまく環境になじんでいるように見えても、急な予測不可な変化に弱い特性は変わらないので、それなりの対策が必要なことは言うまでもありません。臨床現場で様々な人たちを見てきて思うのは、アスペルガー症候群の人は、環境に対する満足度が全般的に低いということです。

 長文なので、2つに分けます。


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支配・統制・特権意識

 昨日の夜、身体じゅうが痛みあまり眠れませんでした。
  目が覚めたときに思いついたアイデアを、是非記事にしなければ、と久しぶりに早朝からパソコンに向かっています。

 aikidonotatujinさんのコメントにお答えする形で、私は加害者の心理について若干触れておきたいと思います。そのことが、DVや虐待の背後にある心の問題を理解するのに役立つようにと願います。

 バンクロフトらが前述の「DVにさらされる子どもたち」の中で加害者像について非常に示唆に富む論文を書いていますので、ご興味のある方はぜひお読み下さい。私はその中からの抜粋と、私が虐待やDV被害者の支援をやっている中で気付いたことをここに書いておきたいと思います。

 多くの虐待・DV加害者は、そのような行為を行うとは思えないほど、一見穏やかであったり、善良な市民に見えます。中には、民生委員や教師など、社会的には人を援助する仕事をしている人さえいます。

 私が以前に会ったDV加害者は、非常に線の細い、大げさなほど他人に気遣いを示す人でした。この人を知る多くの人が、彼が自分の妻を日常的に虐待しているとは信じられないというのもなるほどと思えるほど、一見腰が低く、まじめそうに見えました。

 しかし、私は彼の何気ない言動の中に、加害者としての根の深い問題を見て取ることができました。結局周囲の説得や支援にもかかわらず、彼は最後までDVをやめることができずに家庭も仕事も失いました。

 虐待やDVの加害者に共通する心理的な特徴は3つあります。

 一つは「他人を支配(コントロール)することで自分の中の満たされないものを満たそうとする」ことです。虐待もDVも一種のパワーゲームであり、自分より力の弱い人を力で支配しようとする行為です。力というのは必ずしも腕力という意味ではなく、経済力、権力など様々な意味合いが含まれます。

 多くの加害者は、日常生活の大部分においてつねに他人との比較や競争の中で生きようとしています。そして彼らは、非常に根強い劣等感、自己不全感を持っていて、それを絶対に他人に知られてはならないと考えています。他人に対し軽蔑されたり無視されるのではないかという不安を常に抱え、それらを他人を思い通りにすることで解消しようとするときに、虐待やDVが起こるのです。

 このような支配欲が満たされる瞬間、ちょうど飲酒やギャンブルと同じように脳の報酬システムが働き、一時的に様々な不安や問題から解放されたような快感と、自分が何者にでもなれるような万能感すら抱きます。そして身体的・心理的・性的・経済的な暴力は、非常に手っ取り早く支配欲を満たす道具として、まるで麻薬のような効果をもたらします。精神的に未熟な人間ほど、このような方法への依存度が高いです。なぜなら、そのような快感は長続きせず、過ぎ去れば逆に不安を高めるからです。

 加害者が虐待する対象を手放そうとしないのは、ちょうどアルコールや麻薬を手放せないのと似ています。しかしDVに限っては、加害者が別の対象者を見つけることでパートナーをあっさり手放すことがあります。

 2つめの特徴は、「独特の被害者意識」です。

 不思議なことに、多くの加害者は他人が自分を脅かそうとしているという不安や思いこみを持っています。そしてそのような脅威から自分を守るために暴力という手段を使うのは当然のこと、という考え方を持っています。この被害者意識は独特のもので、実際にはほとんど根拠がない、まるで妄想のようなものです。しかし彼らにとっては、自分の権利や安全が脅かされる前に手を打ったに過ぎないと考えてしまいます。

 なぜこのような心理状態になってしまうのか、それは彼らが「自分自身の中に問題を見いだせない」からです。子どもやパートナーが言うことを聞かないから悪い、相手が自分を怒らせた…などと、原因が常に自分の外にあると思っていて、自分のほうが被害者なんだと言い張る人たちです。そして、この被害者意識が普通でない事に気付くか気付かないかが、矯正できるかできないかの分かれ目とも言えます。

 暴力というのは彼らにとってはmastery(統制)の手段であると同時に、彼らの被害者意識を和らげてくれるものであり、だからこそ彼らはそれにしがみつこうとします。

 3つ目の特徴は「特権意識」です。
 バンクロフトは、彼らは自分たちが他人を支配することを特別に許されている人間であるという特権意識がある、と述べています。極端な例としては、一部の聖職者が行っていた性的虐待が挙げられますが、個人的には、日常見られるのは「自分たちが何をしても被害者が許してくれる、許すべきである」という思いこみではないかと思っています。だから、被害者が彼らを離れることは彼らにとっては裏切り行為のように感じてしまい、2番目の特徴もあって、被害者を激しく責めることがあります。

 この「特権意識」は全く論理的ではありませんが、彼らの劣等感や不安を軽減し、彼らの行為を正当化するには不可欠なものだと考えられます。

 …ここまでお読みになられた方はお気づきだと思いますが…つまり加害者の特性として「自分の都合のいいようにしか考えることができず、自分自身を振り返る能力に欠けた人たちである」ということが言えます。そういう人たちの矯正は確かに難しいと言わざるを得ませんが、それでも全くできないというわけではありません。


 最後に、一部の読者の方には多少辛い事実について触れなければなりません。

 加害者でアスペルガー症候群、あるいはアスペルガー傾向を持つ人は、そうでない人に比べると若干割合が高く、通常の矯正方法では対応が極めて難しいです。

 次の記事で触れる「社会性の障害」にも含まれますが、アスペルガー症候群の中には、極めて感情コントロールが困難で、僅かな刺激に対し感情を爆発させるグループがあります。このグループに属する人で、障害が軽度で発見が遅れ、子どもの頃にネグレクトあるいは長期にわたるいじめを受け十分な対応がなされないまま成長し、適切な社会的行動を身につける機会が乏しかった、などといった一定の条件を満たしている場合に、虐待やDVの加害者となる確率が高くなるといわれています。

 しかも、彼らは自分自身の内面を見つめる能力(内省力)が育たないまま成人しているため、内省型の矯正方法では対応することができません。極めて厳格に構造化・体系化された方法で、「結果から学ぶ」という手法を忍耐強くつづけるしかないのです。

 アスペルガー症候群を持つ加害者の多くは、医学的にも人格障害、双極性障害(そううつ病)のような様々な診断名が付けられることがありますが、それらはほとんど意味を持ちません。彼らの反社会的な行為に真剣に対応しようとする専門家がほとんどいない現状では、病院でも治療拒否されたり、難しい患者さんとみなされたらい回しにされることもあるようです。

 多くのケースは確かに障害の発見が遅いため、分かったところでどうすることもできないのではないかと感じることがよくあります。彼らに同情することはありませんが、他人の注意関心を引こうと必死になり、分かってもらえないとあばれたり暴力をふるう彼らの姿を、痛々しく思います。


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言ってはいけない言葉

 3日間の通訳の仕事は無事に終わりました。
 思ったよりエネルギーを消費していたなと今更実感しています。
 英語を日本語に直すのはそうでもありませんが、トレーニングの中で日本人の言葉を英語に訳してインストラクターに伝えるのが大変でした。

 直訳すると意味不明な言語になってしまうため、言葉の微妙な意味まで考えながら適切な単語を選ぶというのは思ったより難しかったです。いい勉強になりました。

 現在仕事は夏休み中(研修期間として)ですが、大学へは行かなければなりません。後輩の論文指導とスーパービジョン、学会発表の指導とやることが山のようにあります。発達障害の記事の更新は、今週末までお待ち下さい。

 1年前から、夫がアルコール依存症で頻繁に暴力を繰り返し、現在離婚調停中の女性の支援をしています。(注:差し障りのあるところは変えてあります)夫はほとんど仕事をしておらず、女性の収入がないと生活できない状況です。女性は何度か家を出たのですが、そのたびに連れ戻されていました。

 女性は病院の紹介で公的機関へ相談に行き、最終的に離婚の申し立てをしましたが、夫は健康上の理由(といっても明らかに飲み過ぎによる肝障害)を盾になかなか話し合いに応じず、調停は大変難航しています。夫は病院に行くことも、依存症の治療をすることも拒否していて、体調が悪いというのを一つの切り札にしているのです。

 女性の受けた暴力は腕を骨折するほどのもので、暴言暴力は日常化していました。女性は現在は接近禁止令の保護のもと、別居にふみきり裁判が終わるのを待っているところです。私も、また関わった相談員も弁護士も、女性の治療をしている医師も、皆彼女が家を離れることが望ましいと初めから考えていたし、また女性が心身共に一日も早く落ち着いて安心して生活できることを望んでいます。

 最近その女性の夫の世話人と名乗る男性から、私に電話がかかってきました。

 夫の両親はすでに他界しており、彼の親戚に当たる人が面倒を見ているらしい、ということは知っていました。どこから聞いたのか、私がその女性のカウンセリングをしていることを知り、ぜひ話したいことがあると言うのです。

 私は直接会うことはできないので、電話で構わないなら、と返事しました。

 するとその世話人と名乗る男性(Aさん)は、女性の夫(Y氏)の体調が悪く、一人暮らしが相当こたえているので女性(Nさん)に家に戻るように説得してもらえないか、と私に告げました。

 私は接近禁止令が出ている事を説明し、もしそうでなかったとしてもその申し出には応じられないとはっきり言いました。

 その男性は少しむっとした様子で、

Aさん:「近寄っちゃいけないと言われたって、本人は今具合が悪くて近寄れる状態じゃないんですよ。Nさんだって15年も一緒にいたんだから、Yさんが具合が悪くて帰ってきて欲しいと分かったら、帰ってくるんじゃないんですか」
Sana:「だから、法的にYさんがNさんに近づくことができないんです」
Aさん:「私の知り合いにね、Yさんよりもっとひどい暴力を奥さんにふるっていた人がいるんですけどね、そこの奥さんはダンナを一生懸命に支えてね…愛情を持って接すれば必ず本人が変わるって信じていたんですよ。それでダンナも少しはお酒を控えて、前よりは大分暴力をふるわないようになったんですよ。」

 普段私は(仕事上は)滅多に怒ることはありませんが、この言葉を聞いてぶちっとキレてしまいました。

Sana:「Nさんが帰ってくれば、Yさんの具合が良くなる、とおっしゃるのですか」
Aさん:「そうは言わないけど、Yさんは心のどこかでNさんに帰ってきて欲しいと思っているから、それを私が代弁しているだけですよ」
Sana:「おっしゃることは理解できますが、私がNさんに伝えてそれでNさんが帰らないと言ったらどうなるのでしょうか」
Aさん:「そこは先生からうまく伝えて下さいよ。”愛情があればどんなことでも乗り越えられないことはない”とか、言い方はいろいろあるでしょう。」

 何言ってんだよこのオヤジ…と内心ぐつぐつと煮えたぎりながら、

Sana:「今愛情とおっしゃいましたが、それ以前に家庭が安心できる場所でないから、Nさんは家を出たのではないのですか。Yさんの事を責めるつもりは全くありませんが、Yさんがお酒を飲んで暴力をふるったことが、度々家族の安全を脅かしてきたことは事実なのではないでしょうか。」

 Aさんはしばらく黙っていましたが、

Aさん:「それは…でもですね、Nさんが仕事をすることをYさんはずっと許してきたわけだし、さっきの知り合いなんて、奥さんに仕事もさせなかったんだから。Nさんだって(注:Nさんは公務員)Yさんのおかけで仕事を続けられたわけでしょ。Yさんが今困っているんだから助けるのが当然でしょ。こんなときに裁判だ何だって言わないで、ちゃんと2人で納得いくまで話し合えば解決できるんじゃないんですか。」

 話し合いができるならこんな事にはなっとらんわい、と内心思ったのですが黙っていました。Aさんが言いたいことをそろそろ言い終わりそうだな、と頃合いを見計らって、

Sana:「Aさんのお話は承りました。Aさんが私に電話をかけてこられたことはNさんにお伝えします。しかしご理解いただきたいことがあります。Nさんも現在決して体調は良くありませんし、医学的に治療が必要と判断され、私たちが治療を担当しているのです。NさんがYさんに会われることは、法的に禁止されているというだけでなく、医学的にも勧められませんし、主治医も今すぐに会うことを許可しないでしょう。つまり時間が必要だということです。」

 Aさんは…本当に納得したかどうかは分かりませんが、とりあえず電話を切りました。

 DVに限らず、大きなトラウマを抱えてPTSDの症状を示している人は、少なからず自分を責める傾向があり、二次的にうつ病になることが多いです。Nさんだけでなく、多くの被害者はみな、このような辛いできごとが起こるには自分にも責任がある、わたしが弱いからこうなったのではないかと考えています。

 DVではさらに、パートナーへの愛情や責任感のゆえに、自分の無力さや十分に助けられなかったことへの強い自責感を抱いてしまうことがほとんどです。

 そのような状況にある人に、もっと辛い立場の人がいるんだとか、愛情が足りない、努力が足りない、などとあなたにも問題があるでしょということを暗にほのめかすような言葉は絶対に言ってはならないのです。
そういう言葉は、さらに彼らを追いつめてしまいます。

 Nさんは家族に対し十分に愛情を持っています。それでもこれ以上愛情をかけることがYさんのためにも自分のためにもならない、と離婚を決心したのです。

 Aさんのような例は、数え切れないほどあります。中には、専門職としてそのような被害者を助ける人たちが、同じような失敗を犯してしまうことがあるのです。

 PTSDの治療・社会的支援が難しいのはこういう理由もあります。
(今日はディブリーフィング的な要素が強いかな?)


 

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準備された出会い

 突然の依頼で、今日から3日間、あるワークショップの通訳の仕事をすることになりました。

 通訳といっても専属の通訳がちゃんといて、主なところは彼らがやることになっていて、私の仕事はグループに分かれて実習をやるときにインストラクターの通訳をやるというものです。

 そもそも滅多にない機会で、前回通訳の割り当てを受けたのは1年以上前の話しなので、久しぶりの仕事にすっかり緊張してしまい、初めは言葉が出てこなくてしどろもどろになりそうでした。

 それでも時間が経つと段々慣れてきて、そろそろ調子が出てきたなと思った頃に、今日の分の仕事は終わってしまいました。

 夜は、ワークショップに参加しているインストラクターと、ワークショップの主催者関係者と一緒に食事に行きました。その時に、講義を担当していたインストラクター(彼はアメリカの心理療法士)に質問したいことがあるから通訳してくれないか、と一緒に来た人に頼まれ、何となく彼らの会話に加わることとなりました。

 内容を詳しく書くことはできないのですが、彼らが話していたのは、発達障害と愛着障害のことで、ちょうど私が兼ねてから疑問に思っていた内容と全く一致していました。驚いたのは、私がいつか誰かこの領域の専門家に聞いてみたいと思っていたことを、そのインストラクターが非常に簡潔に答えてくれたことです。

 私は臨床経験を重ねる中で、軽度の自閉症スペクトラムに該当する人たちの中に、両親や周囲が適切に関わっているにもかかわらず、愛着(養育者との基本的で重要な人間関係)を確立し維持することが困難なグループがあるのではないかとずっと考えていました。そしてそれが確かであるという答えを、今日やっと得ることができたのです。

 さらになぜこのようなことが起こるのかという仮説や最近の知見、対処などについても、その場に同席していた児童精神科医からさらに詳しく聞くことができ、頭の中をきれいに整理する手助けになりました。

 通訳は、本当に突然頼まれたもので、食事に行ったのも偶然のことでした。

 それでも、今日であった人たちからは、発達障害についても臨床的な介入についても実に多くの情報やアドバイスをもらいました。

 偶然のように見えて、もしかしたら準備されていた出会いなのかもしれない、と思ったりします。


 あと2日間、がんばろう。


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シングルフォーカス

 昨日の午後、用事があって大学方面へ車を走らせていたら、目の前でバイクと車の接触事故を目撃してしまいました。

 バイクを運転していた人は、ヘルメットをかぶってはいたものの、アスファルトの硬い地面に頭を打ち、そのまま動かなくなってしまいました。

 すぐ後ろを走っていたし、倒れた場所が2車線道路の真ん中だったので…こりゃいかん、と車を端っこに止め、近づいていくと、通りがかりの人が2,3人すぐに駆けつけていて、みなうろたえていました。とにかくこのまま動かさず、救急車の到着を待つように伝え、倒れている人に近づいて状態を見ることになりました。

 呼びかけに応答なく、ヘルメットも血だらけになっていて、結構ひどくぶつけたかもしれない、と思いました。接触した車の運転手さんも心配そうに駆け寄ってきて、とりあえず止血をと動いていた時に救急車が到着し、倒れていた人は担架に乗せられ、病院へ搬送されていきました。

 しかし…これで終わり、ではありませんでした。

 救急車と同時にパトカーも到着し、はじめは現場の状況をみて、私が接触事故を起こしたと勘違いした警察官が、矢継ぎ早に質問を始めたので、私は後ろから走っていただけです、と説明すると、

 「あ、じゃあ、目撃者ということですね」

 と免許証の提示を求められ、連絡先を聞かれて、結局は事情聴取されたのでした。

 何時頃事故が起こったのか、は車の中の時計を見ていたのですぐ思い出せたのですが、接触した時の様子を聞かれても…さあ、私はバイクしか見ていなかったので…としか答えられませんでした。接触したのが右か左かもバイクがどっち向きに転倒したのかも全然思い出せなくて、「ああ、あまりお役に立てなくてすみませんね」というのが精一杯。

 事故が起こる直前バイクが減速したので、車間距離をとるために私も減速したまでは覚えているのですが、このとき本当にバイクしか眼に入っておらず、しかも事故が起こった後は、倒れている人の容体に意識が集中していて、すぐそばを車が走っているということすら、ほとんど眼中にありませんでした。

 突然の事故で頭が多少回転しなかったであろうことを差し引いても…やはり私はシングルフォーカスなところがあるなあ、とつくづく感じました。

 昨日の事で、3年前に救急法の講習を受けておいて本当によかったと思いました。今年中にもう一度講習を受けに行かなくては、と思います。


 事故に遭われた方の早い回復を願うと共に、接触した車を運転していた人のショックもかなりなもののようだったので、少しでも早く落ち着けるようにと願うところです。

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与える人生

 2週間ぶりにやっと、記事を書いてみようという気持ちになりました。

 8月に入り、大学病院の方が20日間の研修期間(つまりお休み)に入り、スクールカウンセラーも8月いっぱいはお休み、そしてクリニックもいつもの半分の勤務となり、残るはK市の幼児健診のみです。

 この休みの間に、学位論文の副論文(学位論文の一部となる論文)を2本、これが教授が私に出した宿題です。そういうわけで、休みといっても結局毎日大学と大学病院を行き来する生活が続きます。私は博士課程の最終学年にいて、つまりは崖っぷちに立たされている訳です。(しかも論文の1本は英文…!)

 1週間前、看護学校で前期最後の授業をしたときに、私は学生さんたちに一つだけアドバイスをしました。

 「皆さんが将来看護師として働き始めてから、皆さんの人生にはいろんなことが起こるでしょうし、壁にぶち当たることがあるかもしれません。しかしどんなことが起こっても、皆さんは患者さんの前ではプロの看護師として責任を持って働かなければならないのです。私たち(臨床心理士)も、同じです。だからこそ、ふだんから自分をいたわりケアする心がけが大事なんです。」

 私は今、このことを心から実感しています。

 数日前まで、私は心身共に疲労がピークに達していました。食べることも眠ることも、全てが思うようにいきませんでした。それでも必要とされれば、カウンセリングは続けなければなりません。どんなにしんどくても、相手のことを考えると休むわけにはいかないと思いました。

 先週の木曜日、私は大学病院と出張先の病院を含めて1日に6人の面接が予定されていました。その日の朝私は全く落ち着かず、とても全部をこなせる体調ではありませんでしたが、それでもできるだけやるしかない、と覚悟を決めて病院に向かいました。ところが病院についてみると受付から伝言が入っていて、体調や都合が悪いという申し出で4人がキャンセルになり、その上もう1人の患者さんが車の事故で道路が渋滞し、予定の時間に間に合わないという連絡があったというのです。

 思いがけずぽっかりと時間が空いてしまって、これからどうしようかと考えていたら、病院のスタッフが気をきかせてくれて、外に出てちょっとゆっくりしてくれば、といってくれました。

 お昼休みを挟んで2時間、私は市内を散歩しました。何も考える気力がなく、ただぼんやりと歩き続けました。初めは身体も気持ちも重く、何で私はこんなことをしているんだろうと思いました。しかし歩き続けていると、段々と気持ちが落ち着いてきて、これは偶然ではなく、必然的に与えられた休息なのだ、とふと考えました。

 散歩から戻って1時間少したったころ、遅れると連絡のあった患者さんがカウンセリングを受けにこられました。その時には、私はずいぶんと冷静さを取り戻していました。結局、残りの患者さんも予定通りに来られたので、無事にその日の仕事を終えることができました。

 調子のいい時に比べると、プロの援助者としては決して満足のいく結果ではありませんでした。しかし、私ははっきりと分かったのです。

 たとえ身体が動かなくても、気持ちが沈んだり辛くなったりしても、それでも誰かのために何か少しでもできることは残っている、と。 

 愛されなくても他人を愛することは、多くを望まなければできるでしょう。与えられないからといって、与えることができないとも言えません。たとえほんの少しのことでも、与えられるより与える人生のほうが、はるかに幸せなのです。

 このブログも一度は閉鎖しようと考えました。でも、まだ伝えたいことがたくさん残っているから、やっぱり続けようと思っています。ここを訪れて下さる方々に、私の記事が少しでも何かの参考になり役に立つならばこれほどうれしいことはありません。皆さんには本当に感謝しています。

 
 

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