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家族は許しを学ぶ場

 さっき書いた記事を削除しました。

 コメントを下さった方には大変申し訳ないと思います。

 昨日私は、ある大学の先生と1時間ほど、お互いの家庭の問題で情報交換をしました。(主に思春期の子育てのこと)

 その時に、その先生が言われたことが、今でもこころにずっと残っています。

 「家族は…ある時期に次々といろんな事が起こることがあるけれども、それを乗り越えるたびにお互いに結びつきが強くなっていくものなんですよ。それは、お互いに至らない所が見えて、許せないこともあって、それでも許すことを学ぶからなんです。」

 私は本当に至らないところがたくさんあって、それは皆さんも所々でお感じになっていることと思います。

 自分を責め、抹消することはカンタンですが、それは本当の解決法にはなりません。

 アチャモさんにも、ぴょろにとっても、確かに私の欠点は許し難いときもあるに違いありません。大抵の場合、それは一つ一つの出来事が過去のものになって、振り返ったときに気付くものです。「後悔と自責」を伴って。

 しかし、家族がどのような方向に進もうとも、お互いに許し合わない限りは決して前に進めません。

 それは、相手を許すと言うことだけでなく、自分の至らなさも許すということです。

 この過程を通らない限り、こころの平安は決して得られません。そして平安が得られたときに始めて、道の少し先が見えてくるのです。

 
 私は今、この課題に静かに、そして真剣に取り組んでいます。

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みなさんに知ってほしいと思うこと

 いろいろと事情があって、記事の一部を非公開にしました。

 アチャモさんがこのブログを見ている可能性が出てきたことと、内容的に他人を批判していると受け止められる危険性があると判断したから、という2つの理由からです。

 個人的な事は書かないわけではないですが、今後は書き方を変えて極力誤解を防ぐ努力をしたいと思います。

 
 最近、学校や病院で、発達障害の子どもをもつ保護者の個別カウンセリングを優先的に引き受けるようにしています。障害の発見や説明に関わった場合はもちろんのこと、すでに病院で診断が確定しすでに説明も診察も受けている保護者も、希望があれば引き受けています。

 彼らとの関わりと、私自身のこれまでの経験から、みなさんに知ってほしいと思うことがあります。

 アチャモさんのことも、自分自身のことも含めて、私は自閉症スペクトラムの事をできる限り適切に理解しようと、これまでに様々な本を読み、ワークショップに参加し、そして相談活動に携わってきました。

 コミュニケーションがうまくいかないこと、そして他人の立場や気持ちを理解できないことが、家族関係でも、その他の人間関係でもいろんな苦痛や問題を引き起こしていること、そして、それは当事者にとってとても辛いことであり、彼らが親しい人間関係で多くの傷つき体験を持っていること、そしてそれらを受け入れてほしいと望んでいることを、当事者の話や自分自身の体験から、可能な限りの想像力を持って、何とか理解したいとつとめてきました。

 少なくとも、私が個別に相談をお引き受けしている保護者の一人一人も、私と同じように子どものこと、そして(配偶者や自分の親も同じ障害を持つ可能性があるときに)夫婦や自分の親との関係をも理解したいと望んでいて、自分なりに一生懸命がんばってきた人たちだと思います。

 彼らは子どもや配偶者に愛情を注ぎ、日々子どもたちの成長と行動に目を向けていて、私が自閉症スペクトラムの特性や子どもたちの辛さや抱えやすい問題について話し、対応について話し合うことで、より子どもたちへの理解が深まり子育てに役立ててもらえるなら、私にとってはとてもうれしいことです。

 でも、それと同時に、保護者には情緒的なサポートが欠かせません。なぜなら愛情があるからこそ傷つきやすく、苦しむことも多いと感じるからです。

 自閉症スペクトラムの当事者にとって、相手が意図することが分からないし、こちらの意図することが相手に伝わらないというのは本当に苦しいことです。傷つき体験の多くは、この過程で生まれます。

 しかしそれは、当事者だけでなく相手にとっても苦しいことなのです。多くの保護者や配偶者は、彼らと言葉の上でも気持ちの上でも互いに分かり合いたいという気持ちを持っています。しかし彼らの意図が理解できないし、こちらの意図もなかなか伝わらないので、同じように傷ついてしまうことがあるのです。

 愛情があっても、彼らの特性を丸ごと受け入れるというのは、大変に難しいことです。

 多くの保護者や配偶者は、彼らの行動に度々混乱すると言います。私もそうです。アチャモさんを愛情を持って受け入れようとすればするほど、混乱します。体調が変わるように、気持ちも揺れ動きます。いつも同じ態度で彼らに接することができるわけではありません。そのような私たちの変化に、彼らは敏感に反応します。

 自閉症スペクトラムの子どもや配偶者がいると、自分のやっていることが「これでいい」という確信を持つのが難しくなります。それがさらに保護者やパートナーを不安定にすることがあります。私がお会いしているほとんどの保護者が、将来に対する漠然とした不安や、気持ちの揺れを感じながら、子どもと向き合っているのです。

 保護者が子どもたちの特性を受け入れるためには、彼らもまた、受け入れられる必要があります。彼らが子どもたちを支えるためには、彼らもまた誰かに支えられる必要があります。だからこそ、私は個別カウンセリングを引き受けているのです。


 願わくば、アチャモさんとうまくやっていくために、私にもサポーターの存在が欲しいところです。

 
 

 
 

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感情のコントロール

 今日はくたくたに疲れているので、そのまま寝ようかなと思っていたのですが、何となくそのまま寝るには惜しくなって、短い記事を書くことにしました。

 私は、元来あまり精神的なストレスに強くない人で、子どもの時から気分が落ち込みやすいところがありました。1年に2,3回は溜まった怒りがどかんと爆発する時があって、自分でも良くないと分かっているのに一端爆発するとどうにも止められなくて、爆発の後は反動で落ち込むパターンの繰り返しでした。

 気分の上がり下がりはどんな人にもありますが、ほどほどを維持するには感情をいかに適切にコントロールするかが大事です。そして、そのコツは「落ち込んではいけないという思いこみを捨てる」ことにあると、最近になって知りました。

 怒りをコントロールするには、自分が怒っていることを受け入れ、自分を許してあげることが最善の方法です。

 うつ気分は、落ち込んでいる自分を決して責めないように、今の気持ちのままありのままを認めてあげることが大切です。

 無理に気分転換しようとするよりも、こころが落ち着き、安らぎを感じられるような時間と空間を作り、静かに過ごすことが結局は最も身近な感情コントロールなのでしょうね。


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アスペルガー症候群:最も分かりにくい障害(7)

 さて、3つ組の障害の中で、一番目はコミュニケーションの問題について紹介します。

 アスペルガー症候群や高機能自閉症の診断を考えるときには、何の障害があるのかという分類と、その障害の程度がどのくらいかという2つの観点が必要です。

 コミュニケーションの問題は、言語的なものと非言語的なもの、さらに言語については話し言葉の問題と言葉の理解の2つの問題に分けられます。

 磯部(2005)は、次の4つに分類して述べています。
 1.話し方の問題
 2.言葉の使い方の問題
 3.言葉の理解の問題
 4.非言語メッセージの使い方と理解の問題

 話し方の問題とは、その場に合わないしゃべり方や単調すぎる話し方、また音量調節の不適切さなどをいいます。アスペルガー症候群の人は、淡々と抑揚のない話し方をする人が多いのですが、全部がそうというわけではなく、時に病院の面接室などで、周りに聞こえてしまうくらいの大声で話す人もいます。特にグループで話していて、周りには聞かれないようにひそひそと皆がしゃべっている時に、大きな声で一人だけ話すことで、同じグループの人に不快感を与えてしまうというようなことが、ときどき起こります。

 言葉の使い方の問題は、程度の差があって本当に様々です。
 子どもに多いのは、思ったことをすぐ口に出してしまう事によるトラブルです。例えば、スーパーに買い物に行き、レジで並んでいるときに、前のおばさんを指さして、「あの人の鼻の穴大きいね」などと、見たまま思ったままを言ってしまうというようなことです。

 アスペルガー症候群の人は、語彙数がむしろ豊富なこともあります。一見流ちょうで筋が通っているように思えることも少なくありません。文法も助詞などの使い方を除いては大体合っていることがほとんどです。しかし、以前にも少し触れたように、話し方が回りくどく言葉の引用の仕方が独特で、杓子定規な印象をうけることが多いです。話し方は丁寧なことが多いのですが、その場に合わないことがあり、親しい関係の人に丁寧すぎる言い方をして、逆に相手がよそよそしさを感じたりすることはよくあるようです。

 また、親しさや相手との距離をうまく理解できない時に、それほど親しくない人にまるで普段から知っている人のようなフランクな言い方をしてしまったり、名前を呼び捨てにしたり命令口調になって、相手に不快感を与えてしまうことがあります。

 アスペルガー症候群の人にも、たまに独語が見られることがあります。一つは強迫観念と関連した、不安を打ち消すための呪文のような働きをするもので、周囲に奇異な印象を与えますが本人にとってはどうしてもそうせざるを得ず、それが周りにどのような反応を与えるかということが分かっていてもやめることができないことが多いです。

 もう一つは、思ったことをそのまま口に出してしまうための独語であり、奇異さはありませんがその場の状況には合わないので、何でこんな時にひとりぶつぶつと言っているのだろう、と周囲が理解に苦しむことがあります。独語が本当に困るのは社会に出たときで、そのために仕事を失った人も少なからずいるのです。

 アスペルガー症候群の人たちには、決まった場面ではほとんど問題なく話せる人と、場面に関係なく話すこと自体が苦手な人たちがいます。アチャモさんのように、決まった営業トークならほとんど問題なくできるのに、普段の会話が苦手な人もいます。また話すことが苦手でも書き言葉による表現ならば十分にできる人もいます。中には文章を書く才能に非常に恵まれるアスペルガーの人もいるのです。

 また、話すのも書くのも苦手な人もいます。頭の中には言いたいことがいろいろと思い浮かんで来るにもかかわらず、それを言葉にする段階でどうすればいいか分からないために起こると言われています。高機能自閉症の場合、どちらかというと会話も書くのも苦手という人が多いように思います。

 さて、言葉の理解の問題ですが、大きく分けると、自分の使っている言葉の理解の仕方に関するものと、相手の使う言葉の理解の仕方に関するものに分けられます。

 アスペルガーの人に多いのは、自分の使っている言葉の意味が、文脈やその場の状況に合っていないことが分からないという問題です。知能の高い人で、自分の知っている法律や経済、医学などの専門用語を頻繁に引用して話すことがありますが、十分に意味を理解しないで使っている場合が案外多いです。言葉には複数の意味があって、状況に応じて使い分けられている事への理解が不十分なことから生じる問題や、言葉の単純な意味は合っているけれども文脈の前後とつながらない使い方になってしまうことから生じる問題があります。

 話題が少しずつずれたり、急に変わったりするのもアスペルガーに時々見られる特徴です。まるで連想ゲームみたいだな、と思うこともあります。

 「この前TV番組を見ていたら、ある政治家が日本の経済はこれから良くなるって言ってましたが、経済と言えば失業率ですよね。仕事がなくて、ハローワークに行っても適当にあしらわれて、面接の予定を先方にキャンセルされたこともあって、なかなか思うようにいかないですね。…で、TVのニュースで(福知山線の)脱線事故のことをやっていて、ああいうのを見ていたら今の社会って信用できないなって思うんですよ…」

 社会性にもまたがる問題ですが、アスペルガー症候群の一つの特徴として、相手が自分の言葉をどう受け止めているかに無頓着な場合と、逆に必要以上に過敏になる場合があるように思います。小学生まで仲良くしていた友達と急にうまくいかなくなった、というアスペルガーの中学生の話を聞いていたら、そのきっかけが、相手に親しみを込めていったつもりのある一言に、相手がキレてそれ以後無視されるようになった、というのです。

 そしてその一言は、明らかに相手の気にしている身体の特徴に関する言葉だったので、第三者から見れば確かに相手は怒るだろうと思えるようなことでした。しかし、言った方は、自分と同じように相手が受け止めていないということがどうしても理解できませんでした。

 アスペルガー症候群の人は、言葉を額面通りに受け止めてしまうために、相手の意図が伝わりにくいとよく言われます。しかし、それだけでなく、額面通りでない極端な受け止め方をしてしまうために起こる問題も多々あるように思います。特に言い方が曖昧でどちらにでも意味がとれそうな時に、自分の裁量で判断する過程で極端な意味づけをしてしまうことがあるようです。

 子どもたちのグループで集まって、誰かが映画を見に行こう、と言い出したとします。他の子どもたちは行っても行かなくてもどっちでもいいよ、という意味で「そうね、行ってもいいよ」と言います。しかしアスペルガーの子どもは「行ってもいい」というのを「行くと決定した」と受け止めるか、「私もみんなと一緒に行ってもいいと許可された」という受け止め方をしたりします。他の人はどっちでもいいわけなので、中には今日は行かない、と言い出す子どもが出てきたりするわけですが、そうすると、みんなで行くって決めたのになぜ行かない?となるわけです。

 アスペルガー症候群の人は自分の分かるようにしか相手の言葉を受け止めることができないため、何かを言付けるときに、他の人とは全く違う伝わり方をすることがよくあります。文章全体の意味を捉えられずに、自分がキャッチした部分的な言葉から全体を組み立てようとするところがあるから、というのも一つの理由です。特に自分が気にしていることに関する言葉には敏感で、その部分だけを捉えてしまうため、「そんなつもりで言ったわけではないのに、なぜこの人はこんな受け止め方をするんだろうか」と周囲が不思議に思うこともよくあります。

 最後に、自説として付け加えておきたいことがあります。

 アスペルガー症候群のコミュニケーションの問題には、「言えない」のと「言わない」のと両方があるように思います。言葉でどう表現していいか分からないから言えない、あるいは慣れない環境で頭が混乱してしまい、言いたいことが吹っ飛んでしまうから言えない、と、いろんな理由で言葉での表現ができないことはよくあります。

 しかし同時に、本当は言えないわけではないのに言わないこともアスペルガーには時々見られます。とくに次に述べる社会性の障害が軽度で、周囲の変化を察知できる能力がある人たちは、自分の言うことが他人を不快にしそうだと思うときに、だんまりを決めてしまうことがあるのです。家では普通にしゃべるのに、学校では絶対にしゃべらないし自分を出さないと決めてしまった子どもの例もあります。言わなければ自分が不利になると分かっていても、絶対に話さない場合もあり、そのような極端さがアスペルガー症候群に特有のものかもしれない、と思うことがよくあります。

 非言語コミュニケーションの問題は、ひとことで言うと表情や仕草を読み間違うということです。アスペルガーも伝統的な自閉症のように、表情に乏しいかというと必ずしもそうではなく、よく笑う子もいます。ただし皆がしんみりしているときに急に大声で笑い出すという、その場にそぐわない行動として出てくることもあり、相手の表情、とくにあいまいなものに対する理解が乏しいほど、社会性の障害も重くなる傾向があります。非言語コミュニケーションの問題は、コミック会話の活用が効果を発揮します。

 言葉の使い方・理解の仕方は、苦手な分野とそうでないところは人により違います。非言語コミュニケーションの問題はほとんどは言語の問題とセットになっていて、あとはそれぞれの障害がどの程度なのかという判断になります。言葉の理解は、その人の体調によっても変わるので、気分と同じようにいいときと悪いときが必ずあります。全体的に程度が重いほど伝統的な自閉症(カナータイプ)に近づくことになり、軽いと定型発達の人に近づくということになるでしょう。

 誰にでも誤解や思い違い、話しの食い違いは起こります。しかしアスペルガー症候群の人たちは、そのような行き違いに対して適切に対応することが苦手で、そのためにお互いにストレスを与える結果となることがよくあります。こういう場面でどうすればいいのか、予め説明しそのときは理解できていても、いざ現実の場になるとどうしていいか分からないということも少なくなく、社会性の障害とも合わせて、本人へのアプローチに様々な工夫を必要とします。

 また、明らかに嘘と分かる言い訳や、不快な相手をさらに不快にさせるような言動が見られる場合に、それを指摘されると余計に反発することもあります。ある学校の先生が、「人に傷つけられることには敏感だが、人を傷つけることには全く反省がない」と言っていたように、感情的になると相手に激しい言葉をぶつけることもあり、コミュニケーションの問題、とひとことで言っても、聞く方がこのくらいならまあ受け入れられるかなという限度を超えることも、現実にはいろんな場面で見られます。


 長くなりましたので、このあたりで一端やめて、次の記事で社会性の障害について書きます。

 

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アスペルガー症候群:最も分かりにくい障害(6)

 一晩寝て、少し気分を落ち着かせたので、続きを書こうと思います。

 この前、ある小学校の養護教諭をしているT先生から相談を受けました。ある学年に2人のすでにアスペルガー症候群と診断された子どもたちがいて、彼らの特性を他の先生たちに理解してもらいたいと、いろいろ努力されている熱心な方です。

 T先生は私に、「この子どもたちがアスペルガーだと言われれば、ああ、そうかと私には分かるんだけど、二人ともそれぞれに抱えている問題が違っているんです。この違いを先生方に説明するのが難しいんですよね。」と話しておられました。

 確かに診断のための面接や検査をやっていると、一人一人の得意なところや、苦手な領域、抱えている問題がこんなに違うものなんだと感じることがあります。

 LDの診断は、学習面でのperformanceの問題、そしてADHDは行動面での問題が中心の診断基準とも言えます。それに対し、自閉症やアスペルガー症候群は、3つ組の障害と呼ばれるように、診断基準が生活全般の問題に関わっています。

 よく考えてみると、人はいつも同じ調子とは限らないので、話しが聞けなかったり人とうまくいかなかったり、何かにこだわってしまうことは、誰にでもあります。

 ならばアスペルガー症候群や自閉症との境界はどこにあるのか?と言われると、非常にあいまいだと言うほかはありません。なぜならば、ある人の行動や認知の特性などが、どの程度一般的な人のものからはずれているのかで判断するしなかく、この一般的な行動・認知特性というのがはっきり定義されているわけでもなく、常に変化しているからです。

 以前にも触れたように、何が普通で、何が普通でないのかを判断するのは非常に難しいです。

 一般的な人たちの行動や認知との違いが明らかなほど、障害としては重くなると考えられます。よく私たちの業界で「奇異さ」という言葉が使われるのですが、個人的には少し違うと考えています。奇異と言ってしまうと全然異質のものという意味合いも含まれますが、アスペルガー症候群の人の特性は、一般の人と全く違っているわけではなく、「極端」なのだと私は考えています。

 脳外傷や病気による後天的な脳の機能障害でも、非常に自閉症やADHDに似た症状を示します。そのような症例研究からは、認知や行動の障害を起こすのは、前頭葉、側頭葉や小脳など様々な領域の機能不全によるものだという説が有力です。

 そしてアスペルガー症候群や高機能の自閉症に関しては、前頭葉-扁桃核、小脳あるいは脳幹の神経の異常によるものではないかという説があります。脳内には、神経の複雑なネットワークが存在していますので、そのどこかが上手く働かないと、様々な問題となって現れる…とするならば、うまく働いていない場所によって、行動・認知の問題の現れ方が違っても不思議ではないですよね。

 アスペルガー症候群の人たちにある程度共通しているのは、おそらく判断システムと抑制システムの不具合の問題で、その微妙な違いが、これからお話しする3つ組の問題の出方の違いに関連しているのではないかというのが私の考えです。判断システムの不具合は、主に社会性、コミュニケーションの問題に、そして抑制システムの不具合は、社会性やこだわりの問題に関連していると考えると分かりやすいでしょう。

 ひとことで言うと、脳が潤滑に働くための「微調整」がうまくできないために、脳全体の働きをとりまとめられていない状態、と言えるかもしれません。ちょうどオーケストラで、一つ一つのパートは上手くできるのに、全体で演奏するために必要な指揮者がちゃんと働いていないために、全体の音のバランスがとれなくて、あるパートの音が目立って大きかったり、逆に小さすぎたりしている状態にたとえることができるでしょう。

 この脳機能の不具合は、脳の外傷などで組織や神経が完全に損なわれた場合に比べると、それほど大きなものではありません。しかも、脳は成長と共に、神経のネットワークが増えて機能が変化していきます。また代償機能も働きます。したがって、同じアスペルガー症候群でも一人一人の特性にこれほど違いがでるのは、持って生まれた障害の度合いだけでなく、その人がどういう環境でどんな体験をしてきたかにもよるのだろうと思います。

 「スペクトラム」とはまさに、そういう状態を示すのにふさわしい言葉です。

 他のアスペルガーの人と自分は抱えている問題や困っていることが違うから、私はアスペルガーではないのではないか、と思う必要はありません。3つ組の障害のあるなしで考えるなら、内容が違ってもどっちもアスペルガーということはあり得ます。

 大切なのは自分の特性を知り、それをうまく生かす方法を考えることです。


 前置きが長くなりましたが、次にコミュニケーションの問題に入ります。


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ほんもののわたし

 今月末の中学校での研修会のために、全部で6冊本を買い込みました。そのうちの一冊が、

 「あなたがあなたであるために」 ローナ・ウイング監修・吉田友子著 中央法規 1200円

 いい本だったらちょっと読んでみようかという軽い気持ちで買った本でした。当事者を対象に、アスペルガー症候群の基本的な特徴や日常生活で工夫できることが非常に易しい言葉で書いてあり、子どもや成人へ障害について説明をするときに役に立ちそうな内容です。

 その中に、こういう言葉が書いてあるんです。

 ただ忘れないで下さい。「特別な工夫」が必要なのはあなたが間違っているからではありません。ASらしい感じ方や行動パターンだって正しいのです。たまたまこの地球では少数派だというだけなのです。
 あなたは何かのにせものではないし、間違った何かでもない。多数派と同じように感じる人になろうと考える必要なんてないのです。

 読んだ瞬間に、何だか胸が熱くなってきて、ぽろぽろと涙が出てきました。

 私がずっと胸の内にしまってきたことって、たぶんこれだったんだろうなあ、と。

 数日前、九州自動車道を車で走行中、偶然目の前に1970年代のスカイラインを発見。じっと見て、あー懐かしいな、と思った瞬間、はっと思い出したことがありました。

 小学4年の頃、私は車のボディーに刻まれている、SunnyとかSkylineという文字だけに非常に興味を持っていて、通学路の途中を走る車や駐車してある車を一つ一つのぞいて文字を確認する(ついでに口にも出していた)ので、いつも一緒に帰る友達のグループからヘンなヤツだと言われたことがあったのです。

 一つ思い出すと、次々と「そう言えば…」とイモヅルのようにどんどんと記憶が出てくるものです。

 聴力検査で「聞こえが良すぎる」と言われたこと、血圧や体温の調節がうまくいかなくて朝礼でいつもふらふらになりながら根性で立っていたこと、雷が極端に怖かったこと、女の子同志の会話に入れなくて孤立した時期があったこと、辞書や百科事典、機械の仕組みなどへの興味が強かったこと、小さい頃から気がつくと空想の世界に入り込み、いろんなことをぼーっと想像して過ごしていたこと…。

 今の時代なら、小学校時代の私のような子どもは間違いなくアスペルガーと言われているでしょう。でも今から30年以上前に、そんなことを知るよしもありませんでしたし、相談するところもありませんでした。

 それでも今思い返せば、小学校の5,6年の時にはすでに、私の考え方や関心のツボが何だか他の人たちと違うことにしっかり気付いていたようなのです。そしてみんなと同じようにならなければならない、と思ったのでしょう。私の日常生活とは、「自分以外の誰かになろうとする」毎日だったのかもしれません。

 日常で数限りない対人関係の小さな誤解や失敗を繰り返していくうちに、「私は自分の思ったことや考えをそのまま出さないで、周りのやり方に合わせるようにすれば、問題を起こさずにすむ」と学習したのです。こういう話題なら相手が喜ぶと分かれば、相手に合わせて話す。自分とは感じ方が違っていても、相手と同じ感じ方をしている演技をする、という風に。

 自分の中には「そうじゃないよ」という気持ちがあったにもかかわらず…。

 そこそこに他人との関係を保つために、私の生活は「言ってはいけないこと、してはいけないこと」のルールでいっぱいでした。ルールに従って行動すれば、それほど頻繁に相手を怒らせるということはありませんでしたが、その反面自分がどんどん嫌いになっていきました。

 私はずっと「自分はできそこないの不良品」だと思っていて、なぜそう思うのか、自分でもうまく説明することができませんでした。でもこの思いは、自分らしく生きたいと願いつつも、どこかでそれを禁じてきた毎日の葛藤の積み重ねがもたらしたものだったのではないかと今は思います。なるほど、心底楽しいという気持ちも、自分の人生を生きているという実感も持てませんでしたから。他人の反応に合わせる自分を、カメレオンのようだとも感じていました。

 この「にせものでもないし、間違いでもない」という言葉を見た瞬間、自分を受け入れるとは、本当はとうの昔に気付いていた、ちょっと感性が人と違っている、ほんものの私を認めてあげることなんだと分かり、こころのなかにずっと残っていた氷の塊のようなものが、さーっと解けていくのを感じました。他の大勢の人と同じ感じ方でなければならないということはない、この言葉をもっと早く知っていたら、と思います。

 この本を読み終わった後、自分が今の仕事でもずいぶんと無理して人に合わせようとしているな、というのが見えてきて、他のスタッフと全然意見や感じ方が違っても、それは他人の視点を学ぶ経験になると受け止めればいいだけの話しで、自分が無理してまで賛同しようとするから、余計に疲れているんだな、と納得。

 角が立たない程度にセーブしながら、「ありのままの自分でいられる時間と空間」をどう作っていくのか、これからしばらく私の課題です。

 

 

 

 

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追記

 アスペルガー症候群の記事を書きながら、思い出したことがありました。

 私は英語は得意なんですが、国語が大変苦手でした。特に古文が全く理解できませんでした。センター試験の点数は、国語だけが全国平均以下と散々な結果で、他が結構良かったので「あと50点とれたら余裕で医学部に行けるのに」と先生に言われました。

 現代文も、要約とか意見を求めるような問題ができなくて、周りには「私の考えと答えが全然合わない」とよく話していました。

 論文など、文章にするのは得意なんですが、突然意見を求められると自分でもとんちんかんな事を言っているな、と汗をかきながらも話しをまとめられず、自己嫌悪に陥ることがあります。

 大学の講義は、レジュメを準備し大体その順番に沿って決まった話をするので全く問題なく、学会の口頭発表も原稿を準備しそれを読み上げるスタイルなので、特に困ることはありません。しかし、心理学のある理論の概念が今もどうしても理解できないのです。数学のように答えがはっきりしたものは得意ですが、曖昧な概念になると想像力が働かず、実は大きな勘違いをしていることを、他人から指摘されてようやく気付くことが多々あります。


 こうやって思い出していくと、やっぱり私はアスペルガーに近い気が…。

 

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アスペルガー症候群:最も分かりにくい障害(5)

 首は痛みますが、仕事には行ってきました。しかも今日は、ぴょろの中学校で保護者会主催の勉強会があって、思春期の子どもたちの心理について、講師として話をしてきました。

 ”大学で教えてるし、結構場数踏んでるから大丈夫でしょ?”と大学病院の同僚には言われたのですが…今日の私は完全に顔がこわばり、緊張していました。話す対象者が保護者だったからです。私にとって、最も苦手なシチュエーションは、彼らの視線が一斉に私に集まることで、途中でパニックにならないようにとレジュメをパワーポイントで作り、それを見ながら何とかその場を切り抜けました。

 ぴょろの事も私のことも多少分かっている保護者もいて、別の教育相談に来られた保護者もいて、非常に話しづらく、結局一般的な話しでおわってしまい、中にはちょっと物足りなそうにしていた人もいました。

 でも、私にはこれが精一杯なのよ~!

 50名近い保護者の集まりで、最後まで話せただけでもよかったと思いたいです。

 少数の保護者の集まりならまだ冷静に対応できるので、次回からは会を立ち上げて定期的に勉強してみてはどうか、と明後日学校に提案してみようかと思います。

 2週間後には、今度は別の中学校の教職員と、その中学校校区の小学校の職員を対象にした研修会があり、そこで私はアスペルガー症候群を中心に発達障害について話すように依頼されています。時間はわずか90分なので、事例を挙げながら基本的なことだけしか話せないだろうと思います。そもそもの始まりは、小学校にアスペルガー症候群だろうと診断された子どもがいて、その子が来年中学校に進学することから、小学校と中学校の養護教諭が「この機会にぜひ発達障害について他の先生にも知ってもらいたい」と私に講師をやらないかと持ちかけてきたのです。

 保護者、教職員に対して発達障害について話す機会は、もしかしたら今後もっと増えるかもしれません。

 このブログにも大分発達障害のことを書いてきたので、彼らにも紹介したい気持ちはあるのですが…迷い中です。


 さて今回は、「高機能自閉症」「高機能広汎性発達障害」そして「アスペルガー症候群」の診断名の区別について、私見も交えてのお話です。

 結論から言うと、「ほとんど違いはない」ということです。それならなぜ、行く病院や診察した先生によって、呼び名が違うのでしょう?きっちりと区別をしないと気が済まない私には、この3つの診断名の違いが気になっていました。

 診断名がいくつもあるのに、違いがほとんどないという理由は、診断基準がまだ完全に統一されていないということを物語っています。そして、この3つの診断名の区別については、専門家の間でも意見が別れています。全く同じとして扱う人、若干の違いがあると主張する人、とそれぞれです。臨床心理士で発達障害を専門にしている人でさえ、細かいところで意見が合わないこともしばしばです。ええい、もうどっちでもいいやん!と思いたくなりますが…そこで投げ出さないしつこさが、私のアスペっぽいところなのかも…。(笑)

 これまで、発達障害の臨床に長く関わっておられる先生方(小児科医と児童精神科医)のワークショップや講演会、学会といろいろと出席し話を聞く中で、私の視点とほぼ一致する人を一人だけ見つけることができました。あいち小児医療保健総合センターの杉山登志郎先生です。(始めて杉山先生の話を聞いて、私がうまく言葉にできないことをすらすら話しておられて感動した思い出があります)診断名の区別についても、杉山先生の提案を参考に話しを進めます。

 そもそも「広汎性発達障害(Pervasive Developmental Disorder: PDD)」という診断名は、DSM-IVに記載されているものです。この中には古典的な自閉症(Autistic Disorder)、小児崩壊性障害、レット症候群、そしてアスペルガー症候群の4つのサブカテゴリーというか、別々の診断名が含まれています。

 「高機能」とは、知的障害を伴わないという意味で、「高機能広汎性発達障害」とは、知能指数70以上の自閉症、非定形自閉症(PDD-NOS)、そしてアスペルガー症候群の3つが含まれているのです。「高機能自閉症」とは、慣例的に使われている名称で、知的障害を伴わない自閉症をいいます。

 さて、「高機能自閉症」と「アスペルガー症候群」の違いは何かというと、杉山先生は言葉の遅れがあったかどうかでの区別だけで、基本的な性質は同じというご意見です。個人的にはほぼこの意見に賛成です。というのは、アスペルガー症候群の子どもたちは、発語の遅れはほとんど見られないか、逆に早い人もいるからです。

 個人的には上記に加え、「高機能自閉症」と「アスペルガー症候群」を語彙数、言葉獲得のプロセスとその使い方の違いで区別して使っています。

 アスペルガー症候群の子どもたちは、語彙数は十分あるのですが、意味の取り違えや使い方の独自性が目立っています。一見おしゃべりで言葉が流ちょうに思えるのですが、よくよく注意して聞いてみると、言葉の引用の仕方が独特で、回りくどい印象を与えます。言葉に対する、彼ら独特の意味づけがあるのではないかと思うことがよくあります。この「見かけの流ちょうさ」と知的レベルの高さが、アスペルガー症候群を分かりにくいと思わせる要因の一つなのです。

 高機能自閉症の子どもたちは、一般に発語が1年前後遅れることが多く、また知能が高いわりには語彙数がそれほど多くない印象があります。また本読みや書字が苦手で、言語表現に幅が少ないことから、国語が苦手な子が多くLDと診断されることもあります。

 アスペルガーか高機能自閉症かどうかの判断には、自分の考えや気持ちをどう表現するかを見るのが非常に役立ちます。あるアスペルガー症候群と診断された男性は、「焦りはあるけど身動きがとれなくて煮詰まった感じ」を表現するのに、「熟成しすぎたキムチのようです」と答えていました。また今年の教え子であるアスペルガーだろうという学生さんは、授業中に意見を求めると延々と説明をして結論になかなか至らず、何が言いたいのかを理解するのに苦労します。

 これに対し、高機能自閉症の人は、自分の考えや気持ちをうまく表現するのが苦手で、「分からない」「知らない」と答えることが多いです。何かトラブルがあったときも素直に謝るのは高機能自閉症の人に多く、アスペルガー症候群では説明が長くてなかなか謝らない人が多いかな、と思うことがあります。 

 この2つの違いは言語に関することだけで、社会性、非言語コミュニケーション、想像力の障害についてはほとんど同じと考えて差し支えないでしょう。そして、高機能自閉症にもアスペルガー症候群のいずれにも当てはまるところと当てはまらないところがあって、どっちかなというケースが「高機能非定形自閉症(PDD-NOS)」に振り分けられることになります。私は多分、このグレーゾーンにいるのでしょう。

 とても細かい話しで恐縮ですが、どうしても診断の区別をはっきりさせたい方は、参考になるかと思います。しかし、結局はこの3つ(高機能自閉症、アスペルガー症候群、高機能非定形自閉症)はそんなに大差ないわけで、場合によっては高機能広汎性発達障害といった方が、お互いすっきりするように感じることもあるのです。

 
 次回からは、アスペルガー症候群の3つ組の障害について、詳しく書いていきますのでお楽しみに。


 

 

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アスペルガー症候群:最も分かりにくい障害(4)

 今日は仕事の都合で姫路にお泊まりです。近畿地方は大雨の予想で、福岡でももう少し降ってくれればいいのに、と思います。

 このところ、判断が難しいケースが続いていて、誰かに相談したいのですが、相談相手がいないので多少しんどくなっています。同業者同士でケースの相談やスーパービジョンを受けられるのが理想なのですが、発達障害、ことにアスペルガー症候群に関しては、同業者でも相談できる人の数が極めて限られていて、ケースの相談をお願いしたら、「今は手一杯なので、引き受けられない」とやんわりとお断りされてしまいました。

 こうなったら、小児科医か児童精神科医を探すぞ~、といろいろと当たっているのですが、なぜか大学病院の精神科と小児科の連携がなく、知り合いを通してコンタクトをとろうとすると、指導教授の許可が必要だと分かり、そこで棚上げになってしまったりと、なかなかうまくいきません。

 この2ヶ月で面接した小学生・中学生のうち、発達障害の可能性が濃厚で病院へ紹介したのが3人、これから紹介する予定の生徒が2人、すでに病院で診断を受けた生徒が3人いました。彼らは比較的、保護者の理解や協力が得やすく、また学校の養護教諭や担任など周囲もよく理解していたから、わりとスムーズに行ったのではないかと思うのです。

 しかし、保護者の子供に対する理解自体が非常に難しく、発達障害そのものだけでなく、病院に受診して検査をするということへの拒否感が強いため、明らかに学校での適応がうまくいっていないにも関わらず、援助がしづらくほとんどお手上げに近いケースも数人いるのです。

 これらの面接のほとんどは、学校のスクールカウンセリングの現場で、保護者か担任からの要請で行われています。学級担任からの要請の場合、発達障害ということが全くわからないまでも、問題行動に気付いて「カウンセラーに会ってもらった方がいいだろう」と判断して面接に至るということが多いです。本人に会う前に必ず保護者に会うようにして、その時にできるだけ詳しい生育歴や現在の問題を聞いておき、それから保護者同伴で本人に会って行動面でのアセスメントを行うというのが通常の私のやり方です。

 クリニックや大学病院では、主に二次障害を主訴として面接をしていて、アスペルガー症候群の存在に気づくのがほとんどです。一応主治医との共通理解が得られれば、必要に応じて検査を受けてもらい、診断を確定するようにしていて、そうでないときはこちらからアスペルガー症候群について説明はしないまでも、その特徴や日常生活での対応などに焦点を当て、ニーズに沿った形で面接を続けることが多いです。

 そのような業務の流れの中で一番困っているのが、保護者がどうしても発達障害のことを受け入れられず面接を一方的に中断してしまう場合と、面接の対象となっている生徒(あるいは患者さん)の兄弟や、保護者自身に同じような障害がある可能性が出てくる場合です。

 後者の場合、結果的に家族全体への援助が必要になり、それだけこちらに求められる役割や責任が重くなります。しかし、学校や病院でお会いできる機会も時間も限られていて、私ひとりでお引き受けできるケースの数にも限界があるため、他のサポート資源を利用してもらえるように…と考えて、家族全体への援助ができそうな人や専門機関を探すのですが、彼らのニーズを満たせるような資源がなかなかないのです。

 大学病院で診察を受けたいと希望しても、今は発達障害の外来に関しては平均で2、3ヶ月、経験豊かな先生だと6ヶ月から2年近くも待たなければなりません。やっと診察が受けられても、診断が確定するには少し時間がかかりますし、診断がはっきりしても「これからどうやって子供に(あるいは自分自身に)対応していったらいいのか、どこに行けば必要な時に必要な援助が受けられるのか」という疑問にちゃんと答えられるだけの、サポート資源がまだ十分に整っていません。

 診断が確定したあと診察は定期的に受けているが、これからどうしたらいいんでしょうか、と尋ねられることも時々あります。

 専門医の養成に本腰を入れ始めたのはごく最近のことです。この流れで行けば、専門医の数は少しずつ増えていくでしょう。しかし専門医だけでなく、発達障害の具体的な援助に関われる専門職も、それは臨床心理士だけでなく作業療法士や精神保健福祉士なども含まれますが、ぜひ増えていって欲しいのですが、彼らを養成する体制は必ずしも確立されているとは言えません。

 全体的に、人材が不足しているのに、援助が必要だと判断される人はどんどん増えているというのが現状です。(だからついたくさん抱えてしまうんですが)

 LDやADHDについては、学習支援や日常生活支援といったものが少しずつ広がりつつあります。これは社会的にも認知されてきたこともありますが、多動や不注意といった行動や学習面での問題が、比較的焦点が当てやすくまたその効果の評価がしやすいことも一因だと思います。

 しかしこれに対し、アスペルガー症候群の支援は、一人一人の抱える問題の質や程度が少しずつ違っていて、援助の焦点を絞りにくいところがあり、また評価が難しいという問題があります。もちろん支援については具体的な提示やプログラムといったものもあるのですが、全員に一様に当てはめられない、言いかえると個人の状況に応じて多少の変更が必要になる場合も多く、困ったことがひとつなくなっても、次にまた新しく困ったことがでてきたりするので、結局はケースごとに考えていかなければならない難しさがあるのです。だから、1ヶ月とか、6ヶ月、と決まった期間でこれだけやります、という風にはいかず、援助は年単位のものになってしまいます。

 そういう、具体的で長期に援助をやっていけるだけのマンパワーをどうやって確保していけばいいのか、考えても考えてもなかなかうまいアイデアは出てきません。

 診断まで何とかこぎ着けても、支援の谷間に置かれている子どもたちや大人がたくさんいるのです。

 

 

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