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あと一歩が踏み出せない

 一日早く、今日で今年の仕事が全部終わり、明日から冬休みに入ります。

 …といっても、大掃除にお正月の準備、それから書きかけの論文を仕上げなければならないので、そんなに暇な時間はなさそうです。

 この数日からだの方があまり言うことをきいてくれません。最近特に疲れやすく、ちょっと外出しただけなのに、家に帰って少し休まないと動けないのです。

 からだはそんな風で、休め~!と訴えているのですが、気持ちの方にまったくゆとりがなく、こころと体がばらばらな感じがします。

 私は、かなり焦っているのです。

 あとおそらく6回の勤務で病院を辞めなければならないのに、次の行き先が決まらないからです。

 焦っているのに実際に何も行動を起こせないので、不安になっているのです。


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失敗宣言

 昨日はクリスマスでしたが、1日K市のクリニックで仕事でした。
ぴょろは学校で卒業文集の制作活動に出かけ、夕方までクラスのみんなと過ごしました。

 昨日だけは、車で博多駅まで行き、博多駅から新幹線を利用して通勤しました。駅のコンコースは、何時にも増してにぎやかで、駅裏にはクリスマスのオーナメントも飾られ、何となくみな楽しそう。

 それを見ながら駐車場へと急ぎ、車に乗って家に向かって走らせているうちに、だんだんと気分が落ち込んでしまいました。

 今年は、家族がそろわなかったというだけでなく、友達と呼べる人とのつきあいもなく、本当に寂しいクリスマスでした。K市に引っ越して1年足らず、職場で話す人はいますが、仕事を離れてまでつきあえる人はまだいません。もともと人に慣れるのに時間がかかるので、沖縄にいても2年くらいは友達ができなかった経験がありました。

 今年は、今まで結構連絡をくれていた人からも連絡がなく、この1,2ヶ月、仕事以外の時間で誰かと話したり会ったりすることが、ほとんどありませんでした。

 そんな今の私の状況を思うと、昨日はひどく寂しくなって、落ち込んでしまいました。

 昨日はDV被害者の女性とのカウンセリングをしましたが、それももう一つの落ち込みの原因でした。この方とのカウンセリングは、相手を援助するだけでなく、同じような被害をもつ人間として、いろいろと気付かされることも多いのですが、昨日はとても聞くのが辛く感じました。

 それは、私にその方のような、ソーシャルサポート(社会的援助)資源がないことを思い知らされたからです。

 仕事帰りに車を運転しながら、いつもよりもいろんなことを考えました。配偶者の、あのときの表情を思い出すと、今でも手足の力が抜けてしまいます。私が怒らせたのか、いや、たとえ怒っても相手に直接暴力をふるわない人もいる…考えても考えても、「なぜ」の輪から抜け出ることができなかった…。

 その時に、カウンセリングの中で、被害者の女性がふと言った事を思い出しました。

 「”間違った男性を選んでしまったのは私の失敗”と認めるのは辛いけど、それで少しは楽になった」

 結婚の決断を、相手をよく知らないのに「多分大丈夫だろう」、と安易な気持ちでしてしまったその結果として今があると思うと、その女性の言葉がぐさりと胸に刺さる感じがしました。

 でも…結婚当初から、理解しようとすればするほど、理解できず、近づこうとすればするほど、距離を置こうとする配偶者と、何とか理解し合いうまくやっていきたいとずっと願っていました。

 願うだけでなくて、努力も少しはしたと思います。大学院で心理学を学び、その後臨床現場で様々な人と出会う中で、配偶者がアスペルガー傾向(ADHDも混じっている)を持つことも分かったし、独特の「認知の枠組み」を持っていることも理解できました。

 私自身もPTSDで結構苦しんだけど、それでも家族がバラバラにならないように、辛かったけどそれなりに子供と配偶者の間をとりもち、大切なことはきちんと話し合いの機会をつくるようにしてきました。

 きちんと向かい合って話をしようとすると、配偶者は話題をそらしたり寝てしまったりと逃げの姿勢に入ってしまいます。それで今まで、きちんと話し合って何かを決めた、ということがほとんどなく、大切な事なのにうやむやのうちに話が終わってしまったことも何度もありました。

 配偶者は全く自覚がないわけではないということも、私には分かっていました。配偶者の、「今ボクは変わろうとしているのだから、そのプロセスを見て欲しい」「ボクの可能性を信じて欲しい」という言葉も、何度も信じて待ちました。私のココロのどこかには、「本人がこれだけ言っているのだから、いつか何かの変化が起こるかもしれない」という期待があったのだと思います。

 ある教会の祭司職にある人の、「一緒にいるうちに愛情が深まるから信じてあげて」という言葉も、いつもココロのどこかにあって、忍耐して待つ(といってもただ待っている訳ではなくて、それなりに苦言も言ったけど)ことで、どうにかなるだろうという気持ちもあったのだと思います。希望を失うことへの恐れも。

 でも、昨日やっと気がついたのです。

 配偶者は、自分が他の人と何かが違っていることも、そのためにいろんな問題が起きたことも、ちゃんと分かっているのです。でも、だからといって、自分を変える気はないのだ、ということに。

 忍耐して、本人の言葉を信じて待ったことは、全く無駄ではないけれど、それにしがみつくのはもうやめよう。

 13年かけても、私にはどうしても配偶者を理解できなかったし、どんなに相手の立場になって考えても限界がある、なぜなら、配偶者自身が人間に興味を持てないし、自分で作った認知の枠組みの外では生きられないということが、やっと理解できたのです。

 精一杯やった、とはまだ言えません。でも、白旗を揚げる時なんだ、と思いました。

 私の選択は失敗だった、と認めるのは確かに辛いです。でも、そこから始めるしか他に道はないとやっと分かりました。

 もちろん、失敗から学んだことはとても大きいと思いますし、後悔はしていません。でも、一度負けを認めてやり直す方が、多分今のまま生き続けるよりもっとこれからに希望をもってやっていけそうな気がするのです。

 配偶者からの暴力も、情緒不安定なアスペの特徴を考えれば理解できる行動です。でも、絶対になかったことにはできないし、これからも絶対にないとは言えません。(本人はもう絶対にしないつもりでいるけど)

 回数としては決して多くはありませんでしたが、本当に死ぬかと思ったことが何度かありました。忘れることはどうしてもできません。でも配偶者の身内が取り囲む地域で生きていくためには、忘れたふりをするか、たいしたことないと考えるしかなかったのです。そうやって、自分の中だけに閉まっておこうとすると、次第に人付き合いができなくなり、友達とも段々と疎遠になってしまいました。

 学んだことも多かったけど、失ったものも多かったと思います。

 これからとりかえせるものもあるし、もう取り返すことができないものもあります。でも、ここからもう一度、少しずつつきあいの幅を広げるなり、もう一度関係を築き直すなりしていくしかないのです。

 こんな事を書くと、Sanaさんは離婚するの?と思われる方もいるかもしれませんが、そんな大きな事を決断したわけではありません。

 ただ、失敗は失敗と認めて、ここから再出発しよう、と決めただけです。

 私は多くのエネルギーを、配偶者を理解するために、そして家族をつなぐために使ってきました。これをもう一度見直してみて、しがみつかなくなっていらなくなったエネルギーを、他の人を助けるために使いたいと思っています。

 確かに、悲しいけど、少し楽になった気がします。
 
 
 

 

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あなたのことが大好き

 ”私のことなんて、だれも好きになってくれるはずがない”

 ずっとずっと、孤独を誰よりも恐れながら人に近づけないあなた。

 生きるのに不器用で、伝えたいことがうまく伝えられなくて、自分の無力さに歯がゆい思いもしているのに、それでも人には絶対に自分をさらけだすことを嫌うあなた。

 本音でつきあえる友達を求めながら、親しくなろうとすると不安になって自分から離れてしまい、後悔した事もたくさんあったね。

 助けて欲しいと本当は思っていても、ひとりでがんばるしかないとずっと他人の優しさを本当には受け入れられなかったあなた。

 目を閉じると、いつもうつむいて何かにじっと耐えているあなたの姿が浮かびます。

 あなたは絶対に自分から欲しいと言わないけれど、

 私にはあなたが一番必要としているものが分かります。

 ”あなたのことが大好き、いまのままのあなたが大好き”

 何度でも言ってあげたい。あなたのこころに届くまで。

 あなたが自分を好きになるまで。


 
 最近、患者さんや私自身に繰り返し行っている、こころの作業の一部です。

 今の私には、何よりのプレゼントかもしれません。


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配偶者は迷サンタクロース

CIMG0027 しばらくブログの更新をお休みしていました。
本当に久しぶりです。

 風邪がなかなか治らず、休みも取れず、結構へろへろに疲れていて、全く気力のなかったこの1週間。昨日今日とやっとまとまった休みが取れ、やっと気力も回復しつつあります。

 さて、待ちに待ったクリスマス、家族や好きな人と、または友達と楽しいひとときを過ごしておられる方も多いと思います。

 今年我が家は、ぴょろと2人だけのクリスマスとなりました。配偶者は仕事が忙しい(…のもあるが、多分寒い福岡に来るのが面倒くさいのもあると思う)ので、1人静かにクリスマスを過ごすから、と数日前に電話をかけてきました。

 そんな配偶者もさすがに家族みんなで過ごせないことへの罪滅ぼしのつもりなのか、普段は節約にうるさい人が、ぴょろにニンテンドーDSをプレゼント。(ただし本体だけ…)

 そして、今日のお昼になって、夕方私宛にプレゼントが届くはずだから、と突然電話をしてきたのです。

 結婚して13回のクリスマスを一緒に過ごしてきて、配偶者が私にプレゼントをくれたのはわずか数回。それも大抵が全く予想していない時で、期待した年は本人はけろっと忘れていた、ということの繰り返しでした。

 うーん、この人はいったい何を送ったんだろう…と期待半分、不安半分で待っていると…

 夕方、お花屋さんが、バラの花束を届けてくれました。

 鮮やかなピンク色の、それは大きな花束だったのです。

 配偶者は花が大好き。お礼の電話をかけると、「自分が好きだから、お母さんも好きだと思って」というのがご本人のコメント。

 うん、花を贈ってくれる気持ちはありがたいんだけどね…

 そう、気持ちだけは、本当に感謝してるんだけどね。

 でも…ぴょろと2人暮らしの狭いアパートには、こんなにたくさんのバラを生ける花瓶も場所もないのです。

 せっかくの配偶者の気持ちもきれいなお花も無駄にしたくないので、仕方なく夜9時を過ぎた頃、ニトリまで花瓶を買いに走りました。

 結局、2160円の余分な出費となりました。ははは。

 考えた結果、お花は玄関と部屋の片隅にきれいに飾りました。お花どころか普段の生活で何かをゆっくり楽しむ余裕がなかったと気がつくと、花を贈られたことはやはりうれしく思います…が、

 それならば、切り花よりは鉢植えが良かったのよね…と、配偶者には一応正直に伝えました。

 伝えるには伝えましたが、配偶者はいいことをした、と今も多分、自己満足の世界に浸っている気がします。

 配偶者は今後も迷サンタで居続けることでしょう。

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逆らわない生き方

 せっかくのお休みなんだからと寝ようとすると、電話はかかるしメールもくるので何だか休めないでいるうちに気がつくともう夕方になろうとしています。

 家にいても、気がかりな学生さんやクライエントの事が頭に浮かんできます。うーん、頭を休めなければ…。

 頭に比べると体は本当に正直に出来ているな、とつくづく思います。

 風邪を引いたのはまさに「これ以上働いていたら体をこわすよ」という体からの警告だったかもしれません。

 この数日、本当に体がだるくてよく眠くなります。気持ちでがんばろうとしても体はすでにお休み体勢に入っているので動こうともしません。こんな時しかまとまって休めないので、体が望むだけ休ませてあげようと思います。


 ここ1年ほど、私は物事には時期があり、流れに逆らわずに生きていくことが必要な時もあると考えるようになりました。

 一年でも早く取りたいと思っていた臨床心理士の資格も、結局3年の時間がかかりましたし、病院で勤務したいという希望も、大学院(修士)を卒業してから2年かかってやっとかないました。

 大学院卒業後すぐからバリバリ働いている人もいる中で、私は何もかもがスローペース。

 でも今振り返ると、無駄な時間は全くなかったのではないかと思います。きちんとした仕事に就けなかった1年半は、師匠からEMDRのやり方を学び、また博士課程に進学するきっかけも作ってくれた貴重な時間だったと思います。

 そして博士課程に進学して今の教授と出会えたことで、以外にも大学で非常勤講師として教える機会に恵まれ、自分の専門分野を決めていくために必要な人たちとのさらなる出会いもありました。

 大学で学生さんたちの顔を1人1人見ながら講義しているとき、そして大学病院や個人の病院で患者さんと面接をしているとき、「私はいるべき場所に今いるんだろうな」と時々感じます。

 何かの縁で、あるいは何かの理由があってそれぞれの場所で出会った人たちだからこそ、責任を持って接していきたいと思うと同時に、巡り会った事は決して偶然ではないという思いを新たにします。

 出会いが選べないのと同様に、「引き際」というのも必ずあると思います。

 来年度もほぼ同じ大学で、同じ科目の講義をすることが決まっていますが、私にとっては「まだここで教えることが必要だからここにいる」という気がします。それでもいつか、非常勤を辞める時期も来るでしょう。それまでは、毎年入れ替わる学生さんたちに講義をしながら、経験を積むことが大切なのだと思います。

 大学病院は研修期間が2年で、必要に応じてさらに延長する人もいます。曜日により全く違うスタッフと一緒にやってきて、このメンバーと出会えたことは本当によかったと思っています。ここでも時期が来るまではきちんと仕事をしていきたいと思うし、ここで学んでいる事は必ず他の場所でも役立てていこう思います。

 今まで1年3ヶ月仕事をしてきたK市の病院は、来年3月で辞めることになりました。片道2時間の通勤はさすがに体力的にもきつかったし、収入から交通費を差し引くとなんぼも残らない状態で、こんなに長続きしたことすら奇跡に近いのですが、それでも、発達障害の大人の方に対する援助についてはこの病院で多くを学びました。

 気になる患者さんはまだ数名いるのですが、「去るときが来た」のだと思います。

 辞めることが決まってから、週1日程度働ける病院をまた探し始めました。どうやって見つけていけばいいのかまだ見当もつきませんが、何となく、「行くべき所に行ける」気がしていて、そんなに大きな不安はありません。沖縄なのか、福岡なのか、それともどこか別の場所なのか、それはあまり私にとっては大きな問題ではなく、出会うべき人に出会えて、それで行くべき場所が見つかれば、それでいいのではないかと思っています。

 もし、私が希望しているように個人病院で仕事が見つからなかったとしたら、それはそれでまた別の形で出会いがあるような気がします。

 流れに身を任せる気持ちで、それでも今はまだやるべき仕事がたくさんありますから、それを一つづつ片づけていくうちに、きっと先が見えてくると信じています。

 

 
 

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カウンセラーの資格(2)

 さて、臨床心理士の資格についても触れておきたいと思います。

 まやさんがコメントして下さったように、臨床心理士はおそらく今あるカウンセラーの資格の中では最難関の部類に入ると思います。

 それは試験が難しいというだけでなく、試験を受けられるかどうかの基準も厳しいということです。

 他のカウンセラーの資格と違う点は、「大学院卒」でしかも学会が指定する学校を出ないと受験資格がないということです。平成17年度までは移行期に当たるので、当該大学院以外の学校を平成15年までに卒業している事を条件に受験が認められていますが、これからは指定校のみの扱いになります。

 2005年度の臨床心理士養成指定大学院は全国で115大学院ありますが、それぞれの大学院で受け入れる人数はまちまちです。私の所属するK大学の大学院では、年間15人前後を受け入れていますが、大学院によっては5名程度と少ないところもあります。

 ですから、指定大学院に合格すること自体が、難関なのです。中には競争率が30倍以上という大学院もあるようです。本当に狭き門です。

 さらに、指定大学院は1種と2種に分かれていて、1種大学院は卒業後すぐの年に受験ができますが、2種は卒業後1年間の実務経験を経て受験資格が与えられます。

 私のように海外の心理系大学院を卒業した人は、卒業後2年間の実務経験が受験の条件となります。(なぜ2年なのかは未だに謎ですが)

 そうやって、指定大学院を卒業し、受験資格がそれぞれに与えられるのですが、試験がこれまた難しいです。

 試験は1次試験(マークシートと論述試験)と2次面接の2回行われます。1次試験については、「臨床心理士になるために」という手引きが毎年発売され、その手引きの中に3年分の過去問題があるので、それを中心に勉強していくのですが、毎年毎年どんどん中身が難しくなっていて、「勉強したことが出題されない試験」として、私たちの間では有名です。

 特に今年からは、出題傾向が大きく代わり、基礎的な問題の割合が少なくなり、臨床問題が多くなりました。その臨床問題も、実際に経験していないとなかなか分かりにくい問題で、中には「今の有資格者でも分からないのではないだろうか」と思える問題も出題されていて、非常にショックを受けました。

 マークシートは100問、2時間30分の時間内で解いていきますが、時間が足りないという人も少なくありません。

 同じ日に、論述試験も行われ、一つのテーマについて1200字以内で答えるように求められます。

 1次試験の合格者は大体7割程度、と言われていますが、今年は大分難しかったらしく、私の周囲にも何人か不合格者がいました。

 1次試験に合格すると、2次面接の案内が来ます。指定された時間に会場に来て、面接を受けるわけです。

 この面接は15分と短いのですが、そのためにまた東京に行かなければなりません。北海道や沖縄から来る人は時間も交通費もかかるので大変です。以前にも書いたように、面接官は2人づつで、一度に20名程度の受験者が面接を受けます。質問の内容は一応決められているようですが、面接官によっては決められた質問以外のことを訪ねる人もいて、誰に当たるかが受験者の一番の心配事です。

 面接では主に、これまでの臨床経験や専門分野、また将来どのような臨床をやりたいかなどについて聞かれます。

 私のように、他の国家資格を持っていて中途からの転職組は特に、何で臨床心理士になりたいのか必ず聞かれます。私を面接して下さった先生方は優しかったので、あまり根掘り葉掘りは聞きませんでしたし、「どうしても勉強したかった」私の気持ちをちゃんと理解して下さったので安心したのですが、中にはそれだけで15分を費やした例もあったらしく、油断はできません。

 このようにわずかな時間で行われる面接でも、1割程度の不合格者が出る、という噂です。

 こうしていろんな難関を乗り越えて晴れて「臨床心理士」として認定され、社会に出て行くわけです。確かにここまでくるのも大変だったので「よくやった」と自分を褒めたいところですが、実際にはここからが大変なのです。

 臨床心理士は、国家資格のように1度取ったらずっと有効というわけではありません。5年ごとの更新が必要なのです。そして更新の条件として、臨床心理士認定協会が認定する学会や研修会などに定期的に参加し、基準以上の研修ポイントを稼いでおかなければなりません。基準に満たないと、更新できなくて、再度試験を受け直しということになるわけです。

 つまり、試験に終わったからこれでよし、にはならず、「これからもっと勉強して下さいね」ということなのです。

 どこまでも厳しい資格です。

 そのように自己研鑽を積んでこそ、社会的に信頼される仕事が出来るのだろうと思います。しかしその前に私個人としては、資格のあるなしではなく、本当に他人に対し専門家としての倫理を守り、知識を役立てたいという気持ちを持ち続けることが何よりも大切なことだと、常に自分に言い聞かせています。


 臨床心理士の資格について興味のある方は、日本臨床心理士資格認定協会(http://www4.ocn.ne.jp/~jcbcp/)をごらんになるか、

 臨床心理士養成指定大学院ガイド2005 大塚義孝編 (こころの科学) 日本評論社

をご参考になられるとよいでしょう。また、身近に臨床心理士の方がおられるようでしたら、実際に働いておられる方の生の声を聞いてみるのも、いろいろ知る機会になると思いますよ。


 …ということで、もう少し風邪が治るまでおとなしくしてます。


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いままでも、これからも

 年の瀬も迫ってきて、気持ちも何だか落ち着きません。

 さて、11月に無事終わった臨床心理士の資格認定試験ですが、

 合格しておりました♪

 先週金曜日に通知が来ました。

 さて、来年からやっと「臨床心理士」の名前を使えるわけですが、実際にはいままでとやることは何も変わりません。来年度も生活自体は大きく変わることもなさそうです。資格を得られることで、一つの区切りとなるとは思いますが、目指すところへ到達するのはこれからの努力次第だと思っています。

 いままでも、これからも、自分にできることを、自分なりの方法で、続けていこうと思います。

 
 …で、合格通知をみて喜ぶというよりほっとした私は、翌日から風邪を引き、2日間寝込んでしまいました。

 今日はとりあえず大学病院へ出勤したのですが、面接相手も風邪引きでキャンセルとなり、「もう今日は帰っていいよ」という主任のひとことで早退し、家でじっとしているところです。

 皆様も、くれぐれも風邪にはお気を付け下さいね。

 

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ワーカホリック

 年末が近づくと、毎年それまでにも増して忙しくなります。

 今年は、クリスマスまで休みなしの生活になりそうで、このままいくと過労でばったりたおれるかも、というところまできています。

 大学や専門学校での講義は、準備は確かに時間がかかりますが、大体教える内容をあらかじめ決めてあるので、それほど大変だと思ったことはありません。

 仕事も、来年3月までスケジュールはほぼ今のままです。

 忙しい理由は、仕事の合間に研究をやらなければならないから、です。私は大学で教える立場であると同時に、学生でもあるのです。

 そして学位を取るために、論文も書かなければなりません。

 今年は、春から夏にかけて、うつがひどくなるなど、体調を大きく崩したので、仕事をつづけるだけで精一杯の状態で、まだ論文が手つかずで残っています。

 今日、久しぶりに大学院のゼミに出席して、案の定、論文書かないとねえ、としっかり教授からプレッシャーをかけられて、すっかり落ち込んで帰宅しました。

 ぴょろの学校行事も残っているし、受験もあるし、その上に仕事と家事ときちんとやろうと思ったら、いつ私は論文をかけばいいんだろう…。でも、書かない限り、先がないのでまた睡眠時間を削ることになるのだろうと思います。

 忙しそうな私を見て、周囲には大分元気になってきたように見えているのだろうと思いますが、実はまったく逆です。PTSDの症状は最近少し悪化していて、ほぼ1日おきに悪夢を見るし、睡眠がかなり浅くなっていて、日中でも時々侵入的に辛いことを思い出したり、過覚醒症状(音とか人の気配に異様に敏感になっている)が続いています。

 PTSDを抱える人には、アルコールやたばこなどの薬物に依存する例が多いですが、それはこのような再体験症状や過覚醒症状を少しでも和らげようとする戦略の一つとも言われます。過食も時々見られます。そのいずれにも当てはまらない人たちで、ワーカホリックに陥るケースがよくあるそうです。仕事をいっぱい抱えることで、思い出さないように、という無意識の自己防衛の現れという意見もあります。

 私にとっても、仕事があることが、ある意味PTSDの症状に圧倒されずになんとか日常生活に適応していく原動力になっているのだと思うのですが、今の状況では仕事が回復の助けになるよりむしろ回復を遅らせてしまっているような気もしています。

 やはり、どうにかしてPTSDの治療は受けた方がよさそうです。

 これからしばらくの間は、論文作成などのため、更新ペースが3、4日に1回程度になると思います。News-Cripも一時ストップしますがどうかご了承下さい。


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子のこころ、親知らず

 「生まれてきてごめんなさい」を書いた後、大学の学生さんから親子関係に関する相談を受けました。

 ひとことで言うと、「母親とうまく話ができない」という悩みを抱えている人でした。2回ほど面接して話を聞いたかぎりでは、虐待などの問題はなさそうだったのですが、どうやらお母さんが、本人を傷つけるつもりはなくて、何気なく言った一言がずっと頭から離れずにいて、それ以来お母さんを意識的に避けたり、話そうとしてもうまく話せないというのです。

 この出来事は、今から10年ほど前に起こったことで、周囲はよそよそしい本人の態度を思春期によくある反抗期、という見方をしていたようでした。ところが大学に入学しても状況がほとんど変わらず、親との関係を修復したいのですが何かいい方法はないんですか?、と私に尋ねてきました。

 そこで、イメージ療法(催眠ではありません)を使って、「お母さんにその一言を言われた時に本人が何を感じ、どう考えたか」を思い出してもらいながら、その子が言いたかった事をその時に戻ったつもりで(イメージの中で)伝えてみるという方法を試みました。

 一言づつ、ゆっくりとワークを進めていくうちに、学生さんは、自分が生まれてきた価値がないとずっと思ってきたことや、周囲に迷惑をかけてきたことへの強い自責の念を持っていることを泣きながら話し始めました。

 私の目から見て、個人的な相談を受ける以前から、軽度の発達障害を抱えているのではないかと思っていた人だったので、彼の話を聞きながら、なぜ母親の一言にこれほど強く反応したのか、その理由が分かる気がしました。

 しばらくそのままワークを続けたら、言葉で気持ちをある程度表現できたこともあって、次第に本人は落ち着き、当時の事を大分冷静に受け止められ、母親へのわだかまりを少しずつなくしていきたいという気持ちになれたようでした。その面接の最後で、彼がぽつりとこうつぶやいたのです。

「私は、本当はお母さんのことが大好きなんだって、今気がついたんですよ」

 その学生さんは、私とのやりとりの中で、自分もうまく母親に気持ちを伝えられなかったし、また母親自身もとても不器用な人であったことに気付いたようでした。母親からすると、「これくらいの事で傷つくなんて」というほど小さなことだったかもしれないけど、言われた方にしてみれば「自分は生まれた価値がない」という思いを余計に強くしてしまうような体験になってしまったのだと、本人は私に話してくれました。


 面接の後、しばらくいろんな事をふりかえっていて、ああ、そうか、と気がついたことがありました。

 私自身も、子供のときに母親にはいろいろと怒られただけでなく怖い思いもたくさんして、それがずっと外傷体験として記憶に残ってしまったのですが、それでも私は母親の事が本当は好きだったのだと思います。

 その思いをきちんと伝えることはできませんでしたが、子供なりに母親のことを考え、情緒不安定で時々衝動的な行動に走る母親のことを、ずっと心配していたんだと思います。

 でも、母親からみると、私は明らかに「育てにくい子」でした。母親が期待するような行動ができなかっただけでなく、母親が私に分かって欲しいと思っていた通りには、母親の気持ちを理解できていなかったのではないかと思います。

 発達障害には、相手の気持ちや状況を理解するのが困難、などのコミュニケーションの問題があることは周知の事実ですが、ふと、これはもしかしたら理解できないというのとは少し違うのではないかと気がついたのです。

 言葉でも、非言語的なメッセージでも、確かに適切に読みとり理解する点に問題のある場合も多いです。しかし、それでも自分の持てるスキーマを使いながら、ちゃんと親のことも周囲の事も理解しようとしていて、ただ理解の仕方が周囲の予測するものと多少違っていたり、あるいは理解力がある程度あっても、それを表現する手段が適切でないために、相互のコミュニケーションが維持できないのではないかと思いました。

 親子関係は、社会性の基本であり、発達障害の人にとっては貴重な人的資源であると共に最も問題が起きやすい関係でもあります。親の立場からは理解しづらいことはたくさんありますし、子供とのコミュニケーションをどう改善していけばいいのか、課題はその時の発達段階に応じていろいろと出てくるでしょう。

 本来人間には、「人が自分と同じようにものごとをみて当然」といった、身勝手な思いがどこかにあって、意見や気持ちが合わないと、「なぜ相手は分かってくれないの」という不満を相手にぶつけてしまうこともあります。「親のこころ、子知らず」とはよく言われますが、「子のこころ、親知らず」なことも、少なくないのではないでしょうか。

 ですから、発達障害の子供と親とがある程度落ち着いて生活していくためには、単に子供の社会スキルやコミュニケーション能力を改善するための援助だけでなく、親が柔軟性のある視点を持って子供に対応していけるように、時には第三者の介入や具体的なアドバイスといったものが必要になるのではないかと思います。


 
 

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青少年の性犯罪

@nifty:NEWS@nifty:中3男子が女児3人の体触る=「小さい子なら抵抗しない」-奈良(時事通信)

 明日からの出張と、学会申し込み手続きなど、雑用を終わらせようと、久しぶりに早めに帰ってお仕事中に見つけた記事です。

 最近発達障害の記事が多いですが、もう一つの専門であるトラウマケア分野で、ずっと関わってきたのが性的虐待についてです。通常、性的虐待とは、18歳未満の性被害を意味し、日常的・慢性的に繰り返し行われるものだけでなく、単回の被害でも、被害を受けた年齢が18歳未満なら、性的虐待と定義することができます。

 今回の事件も、刑事的には強制わいせつになりますが、実際には性的虐待にあてはまります。

 性的虐待というと、実父、継父など近親者の大人が加害者というイメージが強いですが、実は中学生や高校生など青少年が加害者となることも大変多いのです。青少年は被害者にもなりやすいですが、特に男子が、自分より年齢が低い子供に虐待を加える例が、なかなか表沙汰になることが少ないけれど、多いのです。それも、幼稚園、小学校低学年のような、明らかに体力的にも精神的にも未熟な子供たちが、虐待の対象になりやすい特徴があります。

 たまたま近くを通った見知らぬ子供が対象になる場合と、近所の顔見知りの子供が被害にあう場合と、いろいろありますが、中には暴力・脅しなどを伴う悪質な事件も後を絶ちません。

 被害を受けた子供たちが、何よりも一日も早く回復できるように、周囲の適切な配慮や援助が望まれます。性的虐待は、他の虐待以上に、心のダメージが大きいので、長期的な視野に立ち、家族も含めた支援を行うことが何よりも大切なことなのです。

 あまり新聞沙汰になることのない青少年の性犯罪ですが、潜在的に多いというだけでなく、対応ができにくいのも大きな問題です。被害を受けた子供たちは、被害を主に母親かあるいは学校の先生など身近な大人に打ち明けるのですが、その時点での対応が適切でないと、子供たちは成人になってもなお、心に深い傷を残したまま生きていくことになってしまいます。また、加害者の少年たちも、未対応のまま大人になってしまうのは、何とも残念なことなのですが、現実はそうなのです。

 本人たちには「ただのいたずら」でも、被害を受けた子供たちには成長上様々な影響が生じます。

 ぜひ、この事実をもっと多くの人に知っていただきたいと思います。

 来年3月の日本トラウマティックストレス学会で、このテーマについて発表する予定です。

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ジレンマ(下)

 同じ病院での、もう一つ忘れられないエピソードを。

 対人緊張がとても強いということで、「社会不安障害」と診断されていた女性に、自立訓練法を教えてほしいと主治医から指示があり、2ヶ月前から面接を始めました。

 その方の、対人緊張は相当に強いように思われたので、一番緊張する状況やこれまでの対処法など、少し詳しい事を尋ねているうちに、ご本人が、別の病院でLD(学習障害)の傾向があると言われたんです、と打ち明けてくれました。

 そこで、一番最近の面接で、知能検査の結果や、診断の経過など、ご本人が病院で説明を受けた内容がどのようなものだったのか、詳しく話してもらいました。

 ところがよく注意して聞いていると、LD傾向と言い切る決め手が見つからないのです。そのあと、患者さんに今何に困っているのか、子供の時にどんな事が一番難しかったのか、など、細かい質問をしてみました。ご本人の話を聞く限りでは、LDではなく、ADHDの特徴も併せ持つ、いわゆる自閉症スペクトラムのグレーゾーン(非定形自閉症と呼ぶ専門家もいます)ではないかと思いました。こだわりはあまり強くなさそうでしたが、3つ組のうちのこりの2つの問題は子供の時からずっと続いていて、子供の頃から人間に全く興味がなく、また軽度の知覚過敏や慢性的な睡眠障害などを抱えていました。

 さらに、注意の分散が出来ず、雑談も重要な話も、人間の会話がみな同じレベルに聞こえてどう対応していいか分からず、それが更なる対人緊張となって現れていました。車の運転も、決まった道以外のルートを通ろうとすると、頭が真っ白になって運転できなくなるので、行動範囲もきわめて限られていました。

 私はその患者さんの話を聞いた後で、LDの事にも自閉症スペクトラムの事にも触れませんでしたが、「今一番困っていることランキングリスト」を作ってもらい、最優先事項から、取り組んでいきましょう、とお互いに確認して、面接を終わりました。自立訓練法のようなリラクセーション法だけを導入しようとしたらおそらくうまくいかなかっただろうと思います。

 別の所で子供の発達相談を受けたときも、同じような話を聞きました。病院ではLDとADHDの両方の特徴を少しずつ持っていると言われたのですが、とあるお母さんが相談に来られたのですが、実際に詳しく話を聞いてみると、LDではなくADHDではないかと思いました。診断については、やはり断言はしませんでしたが、LDの特徴はほとんどないように思えるので、ADHDへの対応を重点的に考えてみては、とアドバイスをしました。

 この2人だけでなく、ADHDなのにLDと言われてしまうことが時々見られます。

 発達障害の診断の際には、知能検査やMRIなどの画像診断が行われます。しかし、もともと自閉症もADHDも脳機能障害としては共通点もあるため、画像診断だけではADHDなのかLDなのか自閉症なのかということを明らかにすることは今の技術では困難です。脳腫瘍など、脳の器質的障害の除外診断のための検査という側面もあります。

 少し難しい話になってしまいますが、例えばfMRIなどで脳の断面の映像において、前頭葉の部分の活動抑制が見られるのはADHDだけではありません。うつ病や、統合失調症など他の病気でも、同じような特徴が見られることがあります。

 そこで、知能検査の出番なのですが、これにも大きな落とし穴があります。

 発達障害の診断に用いられるのは、田中ビネー式とウエクスラー式の2種類があります。このうち、小学校以上の年齢ではウエクスラー式が使われることが多いです。

 このウエクスラー式知能検査は、WPPSI(3歳10ヶ月~6歳)、WISC(5歳~15歳くらいまで)とWAIS(成人用)の3種類を、それぞれの年齢に合わせて使います。簡単な問題から始め、次第に問題が難しくなっていくのは田中ビネー式と共通しますが、問題や課題の数がはるかに多く、また、IQを「言語性IQ」と「動作性IQ」、そしてこの2つから総合IQを割り出すという方法を取っているところが、この検査の特徴です。

 ウエクスラー式では、この言語性、動作性IQの得点の差や、下位尺度(言語性が6つ、動作性は子供用が7つ、成人用が5つ)の得点差から、その人の知能の特徴を調べていきます。

 一般に、自閉症では動作性IQの方が言語性より高いとか、LDの特徴を示す得点のばらつきはこうだとか、いろんなことが言われていますが、実際には、典型例であっても、同じ発達障害に共通する得点差のパターンと言ったものは存在しません。極端な例では、グラフの形は似てるけど、診断自体は全然違うということもあり得るのです。

 さらに、ウエクスラー式知能検査は課題が多く、非常に時間もかかります。特に子供たちには結構ストレスフルなテストなのです。ですから、いつもと違う場所で、いろんな課題に時間内に取り組まなければならない分、発達障害の人には不利な点が多いのです。

 少なくとも、この知能検査の結果は、検査を受けた人の、「最も良い状態(ベストパフォーマンス)」を表すものではありません。また、各下位尺度の得点差も、その人の真の能力を示すものではありません。検査を受けた時の、本人の気分や置かれた状況から大きく影響を受けますから、本来はそれらを考慮した上で慎重に判断をしていかなければならないのです。

 ADHDの人は、短期記憶が苦手という特徴があります。だから、その場で言われたことをぱっと覚えて答えるというのは苦手です。そういう訳で、計算の課題は、その場で口頭で問題を言われてその場ですぐに答えなければならないため、どうしても得点が低く出てしまいます。

 また、頭の中でイメージを操作するような作業(メンタルリハーサル)が苦手な人は、積み木問題のような課題でどうしても得点が低く出てしまいます。

 上記の2人の場合は、この2つがやはり他よりもかなり低く、それがLD傾向では、という判断につながったようです。しかし実際にお2人に、実生活で算数や数学で非常に困ったことがあったかどうか尋ねたところ、逆に図形が苦手なので計算で点を稼いでいたし、日常生活でも数の計算で困ったことは全くない、という返事が返ってきたのでした。

 自閉症スペクトラムでも、あるいはADHDやLDでも、知能検査では実際のIQよりもかなり低めの数字が出ることは少なくありません。しかし、検査結果だけを鵜呑みにすると、実際には自閉症なのに、軽度精神遅滞として扱われてしまう危険性もあります。

 私自身は、正確な診断の難しさを身にしみて感じているため、誤診を防ぎたいという気持ちはありますが、間違いを正して欲しいなどと言うつもりはありません。ただ、知能検査や画像診断の限界を十分に考慮した上で、あまり安易に発達障害の診断をせずに、むしろ「日常生活の不具合」を焦点にした現実的な対応をする方が当事者のためになるのではないか、ということをこれからもいろんな所で伝えていきたいと思っています。

 

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