2日間沖縄の自宅に戻り、4年前に修士論文を書いたときの参考文献や書籍を見直して、必要なものを全部ゆうパックで送り届けてアパートに帰ってきました。
11月の中旬までに1本論文を仕上げなくてはならないので、これからしばらくは睡眠削ってお勉強です(泣)。テーマは、児童虐待の心理的影響とケアについて、です。そういうわけで文献を読むだけでなく、ネットサーフィンをやりながらいろんな情報を集めている所です。論文を書くのは大変な作業ですが、それが印刷物(来年ある大学院の紀要に掲載予定)になる喜びも大きいので、その日を想像しながら、とにかくまとめなくては。
今のようにPTSDだとか発達障害の心理的支援を専門にする前、私が修士課程にいたときに取り組んでいたのが、子育て支援でした。何と言っても、私自身が子育て現役でさんざん悩んでいたので、少しでも問題解決の糸口が見つかれば、という気持ちもあって、かなり必要にも迫られていたのでした。
アメリカの大学院で、周りを見ると結構私と同じくらいの年齢で、小さな子供を抱えながら必死で勉強しているクラスメートが何人もいたし、もう少し年齢が高くて、「うちの子供たちはもう私の言う事なんて全然きかないのよ」と時々こぼしながらも、思春期の問題にまじめに取り組んでいる女性もいました。そんな環境だったので、逆に私にとってはちょっとほっとできる場所でした。
そのころよく話題になっていたのが、子供のしつけの問題でした。アメリカでも日本でも、親にとって一番頭の痛い問題なのでしょう。発達心理学の授業で子供のこころの発達について学んでいても、自分の子供になるとつい感情的に…というのは、文化を超えて共通した悩みなのです。
子供の虐待といっても、虐待の内容や年齢による特徴があって、ひとくくりにして述べるのはなかなか難しいことです。3歳以下の子供の身体的虐待やネグレクトは、割合としては3歳以上の子供よりやや少ないですが、親の虐待が原因で命を落としたり重度の障害を残すことが非常に多く、しつけ以前の問題もかなり含まれます。
3歳以上になると、やはり第一の要因としてしつけの問題が挙がってきます。特に小学校入学前の、いわゆる第一反抗期の時期は、子供も言うことを聞きにくいので、しつけのつもりがエスカレートして…ということも少なくありません。大学院でも、やはりHot debate(熱い議論)になるのは、しつけと虐待の境界線とは何なのか、ということで、講義を聞いて、「私のやってきたことはもしかして虐待になるのか?」と先生に食いついたクラスメートもいました。
食事のマナー、後かたづけ、言葉遣い、他の子供との関わり…と、注意しても聞いているのかいないのか、同じ事を繰り返すし、逆にわざとやってみせてはおもしろがっているふしもある…と、3歳~5歳くらいの子供はけっこう大人にとっては手強い存在です。本当に「怒らせ上手~!」と思わず叫んでしまいたくなることもありました。アメリカの親たちはもっと深刻で、子供をたたいたりして大声で泣くのを近所の人に聞かれて通報されると、警察がやってくることもあるらしく、怒らずに、泣かさずにどうやってしつけをすればいいんだよ…と毎日悩みながら子供を育てているのが実情のようです。
元気の良すぎる男の子を育てていて、私も何度か「もう子供を育てる自信ない」と号泣したこともありましたし、不安もいっぱい抱えながら、気の重い毎日を過ごしていた時期で、大学院の授業を受けに行くと、何となく情報交換ができて、それもこの一番きつかった時期を乗り越える原動力になったのかもしれません。
そういう中で、今でも忘れることのできないエピソードがあります。
私の夫の友人でアリゾナ州に住んでいる家族を訪ねて行った時に、3歳の長男が5ヶ月の弟のおもちゃを取り上げて、床に投げつけるという事件がありました。ちょうど、みんなでこれから出かけようとしていたときで、夫の友人(つまり子供の父親)が、その子を抱え上げると、「マイク、お前はお父さんがやってはいけないよということをやったから、お父さんは今からお前のおしりをたたくよ」と言いながら、2発パンパンとおしりをたたきました。子供は涙目になりながらも、じっとお父さんを見つめながらだまっていました。
その後、彼は自分の子供をしっかりと抱き上げると、「お父さんはお前の事を本当に愛しているんだよ。お前は私の誇りだ。(アメリカ人は人をほめるときに"I'm proud of you."とよく言う)お父さんはお前が嫌いだから怒ったわけではないんだ」と話しかけていたのです。
そのあと、彼らの家族と一緒に車でドライブしている間も、このお父さんは長男を運転席の後ろの席に(もちろんチャイルドシートにのせて)座らせ、ずっと話しかけていました。自分の息子を"sunshine(息子のsunと光輝くという意味のshineをくっつけた表現)"なんて表現するような文化は多分日本にはないかもしれませんが、言葉より何より、お父さんは絶えず息子に、愛情を伝えようと頑張っていたように私には思えました。そして、息子に父親の愛情が十分に伝わっていることもよく分かりました。彼らはしつけをするにあたって、私たちよりも多少厳しいかなと思うこともあったけれど、それ以上に十分に愛情をかけ、信頼関係を作ろうと常に努力していたのです。
驚いたのは、夫の友人であり、2児の父親である男性の生い立ちはかなり大変なものだったようでした。実の母親は行方が分からず、父親はアルコール依存症を抱え、兄弟とも幼い頃に生き別れたという過去を持っていました。だからこそ、子供たちには絶対に自分のような思いをしてほしくない、という気持ちが強かったのかもしれません。よく虐待する親は自分自身も子供時代に虐待された経験がある、と言われますが、たとえ自分が虐待された過去があっても、自分の子供を虐待しない親もいるのだということを、目の当たりに見た経験でもありました。(統計学的には、一般人口から抽出したサンプルに対する調査で、被虐待児で加害者である親の割合は30±5%という結果が10年くらい前に出ています)しつけの事で、悩まない子育てはあり得ないと思うのですが、それでも虐待に至らない人とそうでない人の差はどこで出てくるのだろうか?
加害者の半数以上が実母という状況を考えると、「対応の難しい子供」と「感情のコントロールが悪い母親」というイメージが出てきそうですが、実際には、もっといろんな複雑な状況があって、単に母子の関係だけでなく、家族全体、ひいては地域社会の問題ともいえるのかもしれません。
父親の子育て参加は、母親の子育てストレスを少なくする意味では大変だけど大切だと思うし、何よりも子育てについてできるだけ共通の考え方を持っておくことは、子供が落ち着いて育っていくためにはとても大切なことだと思います。しかし、子育てに参加したくても仕事が忙しくて出来ないこともあるし、子育ての方針をめぐって母親と父親の意見が衝突したり、考えがどうやっても合わないよ…という結果になるときだってある。
失敗しないで子育てをしようというのは不可能だ、と気がついたのは、数年前のことでした。人間の気分がころころと変わるように、子供だって毎日変化するし、お互い虫の居所が悪くて衝突し、ついひどいことを言ってしまったり、あとから「しまった」と思うような対応をしてしまったり…後悔はやはり先には立たないもんだとつくづく思います。
そんな「ナマものの子育て」の中で、大声で叱りつけ、子供に反抗され、涙を流して反省し、そしてまた次の対決場面がやってくる、この繰り返しの中で次第に夫の友人が言わんとしたことが段々と理解できるようになってきたのです。叱ったらちゃんと愛情をもってフォローする、失敗したらちゃんと子供にすまなかったと謝る、「後から」ではなくて、思い立ったときにすぐやる、これらの積み重ねの結果として、親子の信頼関係を深めていくことが、「何を教えるべきか」という事と同じくらいかそれ以上に大切だということを。
おそらく、厳しくてもしつけのレベルで止まる場合と虐待に至ってしまう場合との違いというのは、この信頼感なのではないだろうかと思います。親子の基本的な信頼関係が何らかの理由で築けない時、やはり虐待のリスクが高まるように思います。
信頼関係というのは、子供が親を信頼するというだけでなく、親も子供を信頼するという相補的なものであって、「親は子供に信頼されるべき」という考えがあまりにも強すぎればこれも虐待につながってしまうのかも…。
それにしても、今振り返ってみて、私もぴょろにずいぶんとひどいことを、感情的になって言ってしまったなあと思うし、お互いにいろいろ傷つくこともあったと思います。でも、子供が小さい頃であればまだ、気がついた時点で関係は十分に修復できると私はそう考えています。3歳くらいから始まる反抗期とは、もちろん子供自身が成長する上では乗り越えないといけない一つ目の山ですが、もしかしたら、親との信頼関係をより強くするチャンスになるのかもしれません。この時期の子育てがそれまで以上に悩む子育てになるわけで、親にとってのチャレンジは大きいことに変わりはありませんが、親子だけでなく夫婦関係を見つめる機会にもなるし、子供が体当たりで自己主張をしてくるその行動の中には、もしかしたら、親に対するメッセージが含まれているのかもしれない、とさえ考えることもあります。
「今日より明日がちょっとでもよければ、それでいいんだ」という気持ちを持っていれば、過去の不十分なことを取り返せないなんておいうことや、何歳になったから、もうやり直せないなんていうことはないんですよ。何時までも過去のことを思い悩んでいないで、今できることから、子どもにやってあげればいいと思うのです。あまり悩んだり、もう絶望的だなどと考えないで、子どもはそれなりに育っていくものだという気持ちで、最善を尽くせばいいのではないでしょうか。育児に希望を持って、子どもに接していけば大丈夫ですよ。私は幼い子どもにとっての最大の贈り物は、親が子どもに希望を持ってやることで、それ以上に価値のあるものはないと思っていますから。(佐々木正美著「続子どもへのまなざし」より)
そうやって今もまだ子育てに悩みつつ、思春期第二の反抗期に突入したぴょろと、毎日厳しくかつ楽しい日々を送っているところです。
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