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悲しみを力に(1)

 今朝のK市はいいお天気です。
残暑が厳しそう…。それでも、何となく秋が近づいている空の色です。

 9月の始めに、東京に出張しました。余裕のない日程で、しかも自分の発表の時間が迫っていたので、私は結構焦っていました。モノレール→山手線→中央線と乗り換え、あと2駅で目的地に着くという時に、小さなリュックを背負った子供とお母さんが私の隣に座りました。

 3,4才くらいのその子は、電車が動き出してもずっとまっすぐ前を向いたまま。あまりじっと見るわけにもいかず、何となくちらちらと様子をうかがっていたら、その子は顔の前で手をひらひらと動かしながら、言葉もなく静かに座って一点を見つめていました。靴が少し大きめだったのか、途中で片方がすっぽり抜けて床にぽとんと落ちました。

 お母さんは黙ってその子の靴を拾うと、はかせてあげていました。会話はありません。

 他の人から見ると、普通の何気ないやりとりのように見えるのかもしれませんが、私はそれを見ていてちょっと心が痛みました。

 その子の様子を見ていて、多分この子は自閉症だろうと思いました。言葉の発達も遅れているのでしょう。お母さんがどんな心情で子育てをしているのか、想像するしかできないのですが、お母さんの表情を見ていると、子育てに疲れているか、あるいは子供とどう接していいか、とまどっているようにも見えました。

 比較的早期の発見であれば、子供たちは療育プログラムを利用していくことで、具体的な支援を行うことが可能です。

 でも、その子供たちを育てている保護者(養育者)の悩みや不安を受け止め、サポートする場は非常に限られています。私の住んでいる県の発達支援センターでは、子供の支援とは別に、保護者への面接も必要なら行われているのですが、気軽に相談ができる、というようなものではないようです。支援はほとんど個別に行われるので、保護者が集まって情報交換ができるような機会は、あっても限られているようです。

 昨日病院で、受け持ちのクライエントの今後の援助について、先輩臨床心理士と意見交換をしました。発達障害はないのですが、多少発育の遅れがある子供の遊戯療法を、そこでは担当しているのです。

 母親に子育ての不安や疲れが見られるので、母子平行面接(お母さんと子供の両方に援助をすること)が必要だ、と言う私の主張は一応受け入れられたものの、お母さんは別の人が面接して、私は子供だけに専念したほうがいい、というのが先輩の意見でした。

 それは何故?という私の質問に、「私1人で2人の面接をするのは負担が大きい」、という答えが返ってきました。

 そうですね、と一応聞いたものの、内心では「その負担を引き受ける覚悟がないと、この親子を助けることはできないんだけど…」と思っていました。

 子供に発達上の問題が見つかることで親が抱える不安や悩みを、子供の担当者と違う人が受け止めることで、子供の担当者はそれだけ子供に専念できる、という考えは間違ってはいないと思います。だけど、子供の担当者と母親の担当者が違うということは、担当者同士の意見が合わないとうまくいかない、ということでもあります。先輩のいったことは、正論ではあるのです。

 理論上では、うまくいくことになっていることが、実際の現場ではそうでないということはよく起こります。

 そんなに一人で抱え込まなくても…、と言われても、この親子が数年後に笑顔で過ごせるようにするにはどうすればいいのかを考えると、自分の負担がどうのこうのということよりも、まずこの親子が本当に必要としている援助を優先させたいと思うのです。

 同業者の中でも、こういった意見の相違はたびたび起こります。

 どっちにすればいいのか迷うとき、私はADHDの子を持つ親としての立場に返って考えてみるようにしています。私がこの子の親だったら、どういう事にたいして不安に思うのか、どうしてほしいだろうか、と。

 発達に問題がある、と指摘された時の親としての心情がどうだったか、振り返ってみるのです。

 問題のある子供の子育てが大変であるという事は、大抵の同業者は理解します。そして、具体的にアドバイスする人もいるし、苦しい気持ちを受け止めようと努力する人もいて、その後の援助というのは、私たち一人一人の感性の違いでも違ってきます。

 普通に元気で育って欲しい、という親の願いは、問題を指摘されることでぐらつきます。「私の子育ての何が悪かったのだろうか」と考えもするし、自分を責めたくもなる。親にとって、子供の問題を知ることは、何かを失うことでもあるし、重くなる責任を自覚することでもある。そして、これまでのやり方を変えるように要求されるけど、はっきりした方向性があるわけではないので、どうしていいか分からない時期がやってきます。

 そういう、変化の時期を保護者が乗り越えていけるように援助することは、子供の成長にとっても大切なことなのです。
 
 同業者の中には、保護者の気持ちを受け止めることで、保護者自身がちゃんと状況の変化に対応できるようになるのではないか、と考えている人も多いです。あるいは、自分なりの方法を見いだせるように援助することで、乗り越えられるという意見もあります。

 私は、個人的な経験から、その前に、親が十分に悲しめる時間が必要であると考えています。そして、その悲しみをなくしてしまうのではなく、生きる力に換えられること、言いかえると、悲しい気持ちは人を援助するためのエネルギーに換えられることを、その人自身が知ることができるように、働きかける必要があると思います。

 そうして始めて、子供の状況を受け入れられるだけでなく、子供のいる生活を再び楽しいと思えるようになるのではないか、と最近考えています。


(続く)


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Comments

はじめまして、peterと申します。
突然の書き込みをどうかお許し下さい。
リンクをたどってお邪魔いたしました。

13年間育ててきたこどもが自閉症であることが、今年の1月にわかりました。
それまで障碍があると考えたこともありませんでした。
ただ、この子は純粋すぎてこの世では生きづらいだろうなあと、将来を案じていました。
夫婦二人で頑張ってきましたが、なかなか理解されず、どこにも相談することができませんでした。(学校へ行きたいけれど行けなくなって、今年で4年目になります。)

私が間違っていた。。
もっと早く気付いてあげられたら。。
その思いは、どんなに「違う」と教えてもらっても消えることはありません。

障碍があるとわかってすぐから県の自閉症発達障害センターへ月に1回の割合で行っています。
こどものためのセンターですが、このセンターに初めて行った時、「ああ、やっと私のことをわかってくれる人に出会えた。ああ、やっとこどもの苦しみを救ってくれる人に出会えた。」と思いました。
しかし、やはり、ここはこどものためのセンターであるのだとの思いはなくなりません。
「今、今すぐ私(親)を助けて!」という叫びをぐっと我慢しています。

sanaさん、きっと、障碍を持ってらっしゃる方ひとりひとりに、親御さんひとりひとりに、それぞれに必要な援助は違うと思います。
それを見つけて共に歩んで行かれることは、きっととてもとても大変なことだと思います。

私は、自分を責めても責めても責めたりません。
決して辛い顔を見せてこなかったけど、ここだけは十分涙を流すことができる。。
ここだけは、こんなだめな親でもそのままで受け入れてくれる。。
そのような場所が、今、本当に疲れ果て途方に暮れてる親御さんに見つかることを心から願ってやみません。

sanaさん、大変失礼申し上げてしまいすみませんでした。

Posted by: peter | 2004.09.16 at 10:08 PM

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