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薬の功罪

 今日はまたまた台風の接近で、小・中・高と全部学校がお休みになりました。
私がこっちにきてから、もう何個目の台風だろう…?沖縄なら、毎年のことだから、「あ、またか」というところですが、ここは九州、やっぱり私の移動に伴い、くっついてきたんじゃなかろうかと、ふと考えます。(やはり台風には愛されているようで)

 おかげで、ぴょろだけでなく、私の仕事もお休みになりました。

 どこにも出かけられないので、これから家で金曜日の講義の準備をします。来週火曜日から、別の大学と専門学校で講義を持つことが決まり、来年2月までは忙しくなりそうです。

 先週、看護学科の学生さんたちに、1時間をフルに使って自閉症の話をしました。今月の中旬まで、発達心理学を教えているのです。カナータイプの自閉症について、多少の予備知識のある学生さんもいたようですが、今回私は高機能自閉症、アスペルガー症候群について、詳しく説明をして、それから「レインマン」の一部をみんなに見てもらいました。

 講義のあと、一人の学生さんがアスペルガー症候群について、もっと知りたいと質問に来てくれました。どうやら、私が説明した事は、ほとんどの学生さんたちには始めて知ることが多かったらしく、普段は眠そうな彼らも、2コマ連続の講義にもかかわらず、寝ないで聞いてくれていました。

 来週から始まる、専門学校(作業療法士の学校)の授業でも、同じ話をする予定です。こうやって少しずつ、自分にできる活動をやっていきたいと思っています。

 高機能自閉症やアスペルガー症候群の診断は、専門的なトレーニングを受けた医師でも意見が分かれることがあるということは、以前にも触れた通りです。それは、典型的な(つまり、見てすぐに分かるほど症状がはっきりしている)例が少ないから、だと思っています。

 高機能自閉症の人の多くは、いわゆるatypical(非定型)なもので、とりわけLD(学習障害)とADHD(注意欠陥多動性障害)と多くの点で重なりがあり、「どっちの診断をつければよいか」ベテラン医師でも迷うことがあるようです。

 そのためか、ある病院ではLDやADHDと診断されたけど、別の病院では高機能自閉症と言われた、というケースが少なくありません。私たち心理職の見立てと、医師の診断が食い違うことなんて、しょっちゅうあります。(お医者さんによっては自分の意見を絶対曲げない人もいる)一番気の毒なのは、専門家の意見や診断の相違に直接影響を受けている、当事者だと思うのですが…発達障害に関しては、自閉症かそうでないか、ちょうどその境目にあたるケースの場合は特に、それぞれが独自の判断基準を持っているのか、なかなか細かいところで意見の一致を見ないのが現状です。

 最近になって気付いたことの一つは、どうも医学モデルというのは「まず症状ありき」という考え方のようだということです。だとすると、高機能自閉症のような問題は、目に見える行動や症状という視点から捉えようとすると、誤解される危険性が当然高いだろうと予測できるのです。

 例えば、大人の高機能自閉症の場合、症状だけを見ると、「統合失調症」や「躁うつ病」とよく似ているところがあります。アスペルガー症候群の大人の鑑別はもっと難しく、人格障害と間違われることも決して少なくないように思います。

 その時に、詳細な生育歴の聞き取りが重要な情報源になりますが、これも本人から聞いただけでは十分でなく、家族に来ていただいて訪ねても昔のことだから良く覚えてない、と言われることもあります。時間がさかのぼればさかのぼるほど、正確な情報を得る事は難しくなっていきます。

 そこで心理テストの登場なのですが、心理テストも完全ではなく、高機能自閉症やアスペルガーの診断の上では補助的なものでしかありません。

 そんななかで、高機能自閉症やアスペルガー症候群の診断がなされるのですが、さらにもう一つ困った問題が生じます。

 パニックや他の二次障害(随伴症状)をどう治療するか、ということです。

 大人の高機能自閉症の人には、高い割合でうつ病、強迫性障害や身体表現性疾患(心身症)などの合併が見られます。また、睡眠障害を抱えている人も非常に多いです。

 そういった「困った症状」を緩和するために、抗うつ剤や抗不安薬などを使うのですが、高機能自閉症がない人と比べると、投与量も多く、服用期間が長くなりがちです。どんなに優れた薬でも、症状を50%程度しか抑えることができないので、複数の薬を使わないと期待した効果が得られないという欠点があるのです。(逆に複数の薬を使うことで薬の作用の相殺が起こることもある)

 さらに、自閉症特有の感情のコントロールの問題やパニックを少なくするために、メジャートランキライザー(統合失調症の薬)が慣例的に使われています。もともと鎮静作用のあるお薬なので、イライラは多少沈めてくれますし、リスパダールのようにパニックの回数を減らすことの出来る薬も存在します。また統合失調症の薬は、頑固な不眠がある時には効果を示すことがありますので、それなりの利点はあります。

 しかし、忘れてはならないのは「薬は一時的にそれらの症状を抑えてくれるだけ」なのです。

 結局は、コントロールの方法やパニックを回避するための環境整備など、薬以外での援助なくしては、薬を使う意味があまりないのではないか、と個人的には思っています。

 
 症状から見ると混乱しやすい高機能自閉症やアスペルガーですが、高次脳機能の障害という観点から見ると、理解がしやすいように思います。前頭葉や側頭葉など、大脳皮質のいくつかの部分の活動低下や、大脳辺縁系(脳の中心に近い部分、視床とか海馬とか、扁桃体などがあるところ)の過活動など、脳機能のバランスの崩れとして見ると、なぜLDやADHDと症状が重複しているのかも説明ができるからです。

 ぴょろはADHDですが、多少アスペルガーの特徴も持っています。感情のコントロールはあまり良くなさそうですし、言葉の使い方が多少おや?と思うことがあります。しかし、注意力が低下していなければ、周りの状況や他人の気持ちや立場は援助なしで理解できているので、やっぱりアスペではないなあ、と思っています。

 子供たちにも大人にも、「どっちか分からない」自閉症とLD,ADHDの中間にいる人たちがたくさんいるように思います。そうして、目に見える症状の違いから、違う診断、違う投薬治療が行われているのかなあ、と思うことがよくあります。

 個人的には、専門家に「高次脳機能の障害の一つとして、目に見える症状だけでなく、その背後にある共通点に基づいた診断治療を行っていく」ことを願っています。そうすることで、誤診や無駄な投薬を少しでも減らせるように、また症状をなくすことでなく「生きにくさを改善する」という視点で、長期的な視野に立った支援ができるように、私も大学の講義や研修会などで、できるだけ働きかけていきたいと思います。

 

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もう一度信じてみる

 今日は、一ヶ月以上延期になっていた、筑後川花火大会に行って来ました。
…と言っても、私の住む場所は会場から1キロちょっとしか離れていません。

 今年から、2会場に分かれたので去年よりは移動がちょっとだけ楽でした。夜だったしあの人混みだから気がつかなかったけれど、多分中学校の生徒や大学の教え子には、花火を見ながら叫びまくっていた姿を見られたかもしれません。今週の授業で「先生この前○○にいたでしょう?」と言われそう…(汗)。

 ぴょろは間近に花火を見るのが初めてなので大喜びでした。

 最近ぴょろは、私と手をつながなくなりました。人混みの中で見失うと困るからと、手をつなごうとすると、さっと振り払い、ひとりすたすたと歩いていくのです。親としては段々大きくなっていくことを寂しいと思いながらも、ああ、もうこういう時期になったのか、とちょっとうれしくもありました。

 今日の夕方まで、私は珍しく落ち込んでいました。K市に住み始めて8ヶ月が過ぎ、大分落ち着いてきたしぴょろが来たことで安心できた部分もあったのですが、今でも時々あまり思い出したくない事(配偶者の暴力のこと)を思い出してしまうし、K市に来たことで実家との行き来が避けられなくなったこともあって、このところ少しストレスがたまり気味でした。

 今の私には、愚痴を言う相手はまだいません。以前に沖縄にいたときもいたかというとそうではありません。結局一人でため込んでは年に1,2度爆発させるのがいつものことでした。しかし、今の職場には、こういう暴力やいろんな被害のケアを専門にしているスタッフが何人かいて、その人たちと一緒に仕事をする機会がたびたびあるので、自分の経験を少し話してそれなりに理解を示してくれる人も出てきました。

 私は他人に自分の体験を話すときに、かなり他人事のように話すくせがあります。そのためか、内容的には深刻なのに、その深刻さが相手に伝わらなかったりするのです。「ああ、そのくらいなら、この人なら大丈夫」と思われてしまい、それで話が終わってしまうこともこれまでに数え切れないほどありました。

 大学で人間関係を良くするためのこつや、コミュニケーションの方法などについて話していながら、実は私自身のコミュニケーション能力はかなり低いなあ、と講義をしながら矛盾を感じたりもします。「分かって欲しい」と思うことを伝えきれなかった、あるいは伝えたくても伝えることができなかった体験を当たり前のように繰り返してきたからなのか、私はどうも肝心なことは自分の中だけにしまってしまう、やっかいなところがあるように思います。

 タマゴの殻(Eggshells)のように脆いココロを持つ親と、コミュニケーションに障害のあるアスペルガーの配偶者と、確かに難しい人へ対応していかなければならない事情もあります。こちらが歩み寄るしかないというのは正論です。

 しかし、そういう人たちばかりに接しているわけでないのに、それでも相手に自分の気持ちや思いを伝えることに異常に抵抗感を持っている背後には、これまでに自分が立ち直れないだろうと思うほどの裏切られ体験というのが何度もあって、それ故に多分人自体を信じるのが難しくなっているのかもしれません。

 高山さんのブログに、

 そんなことよりも、人と人との接する中で一番大事なのは人を信じること、そして信じてもらえること、これに尽きるのではないだろうか。話し方や、理論で人から信用を勝ち取るのはなかなか難しいものです。

と書かれてあったのを読んで、改めて考えさせられました。良いコミュニケーション技術というのも確かにあって、どうすればそれが身に付くかという手引き書もワークショップもいろいろあります。でも、結局は人の心をつないでいるのはやっぱり信頼ではないか(それは「愛情と信頼」でも書いたことだけど)、そして人に信じてもらう前にやっぱり私自身がその人を信じられるかどうかが大切ではないかと思ったのでした。

 元師匠も今の師匠のどちらに対してもやはり私は自分の事を話すことにかなり抵抗しました。元師匠はそういう私をまるごと受け入れようとしてくれていたのですが、私は最後まで自分の本心を伝えることが出来ませんでした。今の師匠に対しても、初めは警戒心が強くて自分からは絶対に近寄ろうとしませんでしたが、あるコンサルテーションの最中に「実は人を信じるのが苦手なんです」、と告白したところ、「人を信じられないで何とかしてもらおうなんて虫が良すぎる」と言い返されて、その時に始めて信頼関係の重要さに気がついたのでした。

 配偶者の暴力の事では、本人の態度だけでなく周囲の言葉や態度にもずいぶん傷ついたことがありました。また、それ以外の事でも、人間関係でひどい裏切りに遭ったことが何回かありました。「どうせ言っても分かってもらえないだろう」、多分私の事を理解できる人はいないだろう、と考えてしまうことが今でもあります。

 そういう時に、元師匠と師匠には少なくとも信頼してもらえてた、ということを思い出しながら、過去にはいろいろあったけど、そこからもう一度誰かを信じてみる、そうやって本当に気持ちの通い合える人間関係をこれから築いていけばいいんだ、と自分に言い聞かせることにしています。


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試験が終わるまでは

 先週末から、連休が終わるまで、自宅に戻りました。ご先祖の法事に参加するためです。

 配偶者の家は兄弟親戚が非常に多く、法事の当日は、60名程度の人が集まりました。実家で、食事の配膳など、久しぶりにお嫁さん仕事をしてきました。結婚して12年以上も経つのに、始めて会った親戚も結構いて、法事のやり方も全然違うのでいろいろと勉強をさせてもらいました。

 20日ぶりに、我が家の猫たちとご対面も果たしてきました。しばらく会っていなかったからもう忘れてるかな?と思っていたのですが、一応私を飼い主だと覚えているようで、私が自宅にいる間は、そばにいる時間が長かった気がします。(本当は離れたくないよー)

 ぴょろの中学校の事や、来年度仕事をどうするかなど、考えることはたくさんあるのですが、今から10月10日までは臨床心理士の試験勉強が第一優先です。

 試験は結構難しいし(というより難問奇問が多い)、専門用語が分かりにくいので勉強も大変です。

 後期の講義も始まっているので、少ない時間を利用して勉強を続けています。本当は「ポケットモンスターエメラルド」も発売されたし、のだめカンタービレの10巻も出ているけど、今は試験が終わるまで封印中なのです(泣)。

 試験が終わったら…うーん、専門学校の講義も入るので、結局忙しいのか…。今の点数だと1次試験も通るかどうか分からないので、やっぱり今は試験の事だけ考えたいと思います。

 そういうわけで、ブログの更新も、しばらくペースダウンします。


 

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悲しみを力に(2)

 今日、これから大学で講義です。
今年度後期は4年生の選択科目で臨床心理学を教えています。

 今の時期、学生さんたちは、就職試験と看護師国家試験の準備で大忙しです。講義も、集中講義に近い過密スケジュールで、教える方だけでなく、講義を受ける方も大変な様子。

 いずれ看護師になる彼らに、臨床心理士を目指す人たちと同じような事を教える必要性を感じないので、かなり実務に関係のあるテーマを中心に教えています。その中には、ストレス管理とか、自己能力開発といった、応用分野も含まれています。選択科目なので、受講者は多くないですが、進路についてはかなりはっきりした目標を持っている人たちが多いです。そういう彼らのニーズに合わせられるかどうかが、私の力量の問われるところでしょう。

 やっぱり、教えること自体が大好きみたいです。

 前回、「悲しみを力に(1)」を書いたところ、peterさんからコメントをいただきました。

 「sanaさん、きっと、障碍を持ってらっしゃる方ひとりひとりに、親御さんひとりひとりに、それぞれに必要な援助は違うと思います。
それを見つけて共に歩んで行かれることは、きっととてもとても大変なことだと思います。」

今日はそれにお応えする形で続きを書きます。

 私は今、大学の付属病院を始め、複数の病院で非常勤として働いています。いずれも、複数の医師と、同じく非常勤の臨床心理士や社会福祉士などのスタッフを抱える、人的な資源には恵まれている場所です。

 基本的に、病院での心理士の関わりは、心理テストかカウンセリングのいずれかになっています。面接時間は60分が原則ですが、状況によっては90分の時もあります。

 その短い時間の中で、個別にカウンセリングをするか、あるいは何人かのグループで何かの話し合いや活動を行っています。

 大人でも子供でも、発達障害の場合や、家族の問題が本人に大きな影響を与えている場合、本人だけの援助ではうまく行かないことがでてきます。そういうときには、前述の通り、別の担当者が家族への面接を行うというのが基本です。あるいは同じ面接者が本人と家族と両方の面接を受け持つこともあります。面接は同じ日に行われることもあるし、日にちをずらすこともあります。

 どの方法をとっても、時間的に限られていますから、本人と家族と両方の必要を見つけ、支援するには当然ながら限界があり、そのためにジレンマを感じることもあります。発達障害の場合、個人個人のニーズの違いはありますが、生きにくさの改善や自立に向けた支援、という点では、ある程度の方向性があるので、援助の計画や予想は立てやすいです。

 しかし、本人の周囲にいる家族に目を向けると、家族の一人一人は、本人の障害から派生する問題だけではなく、日常では他の問題も抱えているし、発達障害のある人が家族の中にいる、という以外にも悩んだり考えなければならないことがたくさんあります。だから、家族のニーズに対応していくのは、大変な作業であるというのは本当だと思います。

 それでも、その「大変さ」を引き受ける決心をして、本人と保護者の両方への支援を続けています。

 それは、「自分にして欲しいと思うことを他人にもその通りにしなさい」という聖書の教えが土台になっています。私自身が、ぴょろのADHDについて、ずっと一人で悩んできて、本当はこうして欲しかったなあ、ということがたくさんあったので、そういった体験の中から学んできたことを、支援に生かしたいと思っているのです。

 ぴょろの問題行動をうまくコントロールできなかったこと、対人のトラブル、配偶者との関係、などなど、これまでにずいぶんと自分を責めてきたし、消えてしまいたいと思うこともありました。自分ががんばるしかない、と思いながらも、本当はどこかで「これでいいよ」と受け止めてもらえていたら…と何度も考えました。

 そういう体験から、どうしても、保護者の表情や態度の変化を見逃すことができなかったのです。

 たとえ、10分や15分の時間であっても、今日はこのまま帰ってもらっていいのだろうか、と感じるときは、家族と話をします。個人の連絡先は教えることができませんが、専用メールを利用し、メールでのやりとりを続けている人もいます。十分でなくても、せめて受け止められているという気持ちが少しでも持てるように、辛さを共有するために、出来ることをやっていこうと思っています。

 私は、ぴょろのこと、自分の生い立ちの事、配偶者の問題で、たくさん悲しい経験をしました。最初は何故、こんな問題を背負わなければならないのだろう、とどこにもぶつけようのない気持ちを抱え、途方に暮れたこともありました。

 でも、ある時、もしかしたらこの悲しみは、私の成長のためには必要なものだったのかもしれない、と思うようになりました。今までは、問題がなくなることを望んでいたけれど、そうではなく、そこからどう生きるかが試されていると感じたのです。

 そういう体験をした人間だからこそ、できる援助がある、それが、「大変さ」を引き受けようと決心するきっかけになりました。ぴょろも実家も配偶者も、すぐに解決できるような問題は一つもありません。今でも時々悲しくなることも、自分を責めたくなることもあります。そんな私を全部受け入れた上で、あえて大変な道を選ぼうと思ったのです。

 私の教え子の一人が言ってくれた言葉があります。

 「耐えるだけでは何も解決にならない。何かしないとそのままで終わってしまう。もっと勇気出して行動すれば何かを失うかもしれないけど、それは自分のために必要なこと、と思えばいい。」

 私は、何か大きな事をやろうと思っているわけではありません。私が心がけているのは、

 「できることをやる」
 「今すべきことを引き延ばさない」

 の2つだけです。自分の力の限界、立場の制約、問題の複雑さ、いろんなものを受け止めながら、これからもこつこつとやっていこう、と思っています。もちろん、他のスタッフとうまく連携を取りながら、一人で抱え込まないようにして、本人と家族以外の応援団を増やしていくことも、頭に置きながら、です。

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ふるさと

 今日はぴょろの小学校で授業参観がありました。
仕事を途中で抜け出して(職場から自転車で3分の距離)参加してきました。

 教室に行くと、音楽の授業をやっていました。練習曲は「ふるさと」、子供たちはソプラノとアルトに分かれて練習し、最後に班ごとに発表するというのです。

 黒板には、3番までの歌詞が書かれていて、歌の意味とか、どんなイメージが浮かぶかなど、先生から子供たちにいくつか質問したあと、練習が始まりました。

 みんなが歌うのを聞きながら、私はある光景を思い出していました。

 私が子供の頃に住んでいた場所。高校卒業後に家を離れてから、再び住むことも訪れることもなく、月日は流れていきました。2年前の4月、私は自分の子供の頃の記憶を少しでも取り戻すきっかけになればと、その場所をぴょろと一緒に26年ぶりに訪れました。

 生まれてから3才まで住んでいた家も、3才から小学校2年まで住んでいた家も(この場所はなんとショッピングモールになっていた…)、小学校3年から高校卒業まで住んでいた社宅も、全部別の建物に変わっていて、ここでどんな暮らしをしていたのか想像すらできないくらい、すっかり周りの様子は変わってしまっていました。通った小学校も新しく校舎が建て直され、思い出と呼べるものを見つけることもできませんでした。

 わたしが帰る場所は、もうどこにもないのかなあ、とその時はけっこう落胆しました。


 去年から、私が小学校2年まで過ごした場所に近い、心療内科のクリニックで週末だけ働くようになりました。生まれ育った場所、という思いはあったけれど、離れてからの時間があまりにも経ちすぎていて、懐かしいという気持ちもあまり持てず、私の故郷っていったいどこにあるんだろう?と時々考えることもありました。

 今年の7月、クリニックでの仕事が終わり駅へと歩いていると、懐かしい太鼓の音がしてきました。駅前で、子供たちや大人たちが練習をしているのが見えました。駅のコンコースから、少し離れた場所に人混みがあって、通りがかりの人たちも彼らの練習を眺めていました。

 その光景を見たとたん、私は子供の時に体験した、あの祭りのときのわくわくした感覚がよみがえってきました。同じ町内の子供たちと一緒に、私もその祭りに参加したっけ…と。

 太鼓とシンバルのリズミカルな音と、太鼓をたたく人たちの表情を眺めながら、私の心の奥底になにかわき上がってくるものを感じました。

 そうだ、やっぱりここが私の原点なんだ、と。

 住んでいた家はなくなってしまったけど、家族もバラバラになってしまったけれど、それでも何かあれば戻ってきたい場所、私のふるさとと呼べる場所はやっぱりここなんだ、と気がついたのです。

 
 K市から2時間かけての通勤は今でも続いています。来年の夏、同じクリニックで仕事をしているのかどうかは分からないけれど、私にも帰る場所があると気付かせてくれたあの太鼓の音は、どこにいてもずっと忘れないでいたいと思います。

 小倉祇園太鼓、それが私のこころのふるさとなのです。


 

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悲しみを力に(1)

 今朝のK市はいいお天気です。
残暑が厳しそう…。それでも、何となく秋が近づいている空の色です。

 9月の始めに、東京に出張しました。余裕のない日程で、しかも自分の発表の時間が迫っていたので、私は結構焦っていました。モノレール→山手線→中央線と乗り換え、あと2駅で目的地に着くという時に、小さなリュックを背負った子供とお母さんが私の隣に座りました。

 3,4才くらいのその子は、電車が動き出してもずっとまっすぐ前を向いたまま。あまりじっと見るわけにもいかず、何となくちらちらと様子をうかがっていたら、その子は顔の前で手をひらひらと動かしながら、言葉もなく静かに座って一点を見つめていました。靴が少し大きめだったのか、途中で片方がすっぽり抜けて床にぽとんと落ちました。

 お母さんは黙ってその子の靴を拾うと、はかせてあげていました。会話はありません。

 他の人から見ると、普通の何気ないやりとりのように見えるのかもしれませんが、私はそれを見ていてちょっと心が痛みました。

 その子の様子を見ていて、多分この子は自閉症だろうと思いました。言葉の発達も遅れているのでしょう。お母さんがどんな心情で子育てをしているのか、想像するしかできないのですが、お母さんの表情を見ていると、子育てに疲れているか、あるいは子供とどう接していいか、とまどっているようにも見えました。

 比較的早期の発見であれば、子供たちは療育プログラムを利用していくことで、具体的な支援を行うことが可能です。

 でも、その子供たちを育てている保護者(養育者)の悩みや不安を受け止め、サポートする場は非常に限られています。私の住んでいる県の発達支援センターでは、子供の支援とは別に、保護者への面接も必要なら行われているのですが、気軽に相談ができる、というようなものではないようです。支援はほとんど個別に行われるので、保護者が集まって情報交換ができるような機会は、あっても限られているようです。

 昨日病院で、受け持ちのクライエントの今後の援助について、先輩臨床心理士と意見交換をしました。発達障害はないのですが、多少発育の遅れがある子供の遊戯療法を、そこでは担当しているのです。

 母親に子育ての不安や疲れが見られるので、母子平行面接(お母さんと子供の両方に援助をすること)が必要だ、と言う私の主張は一応受け入れられたものの、お母さんは別の人が面接して、私は子供だけに専念したほうがいい、というのが先輩の意見でした。

 それは何故?という私の質問に、「私1人で2人の面接をするのは負担が大きい」、という答えが返ってきました。

 そうですね、と一応聞いたものの、内心では「その負担を引き受ける覚悟がないと、この親子を助けることはできないんだけど…」と思っていました。

 子供に発達上の問題が見つかることで親が抱える不安や悩みを、子供の担当者と違う人が受け止めることで、子供の担当者はそれだけ子供に専念できる、という考えは間違ってはいないと思います。だけど、子供の担当者と母親の担当者が違うということは、担当者同士の意見が合わないとうまくいかない、ということでもあります。先輩のいったことは、正論ではあるのです。

 理論上では、うまくいくことになっていることが、実際の現場ではそうでないということはよく起こります。

 そんなに一人で抱え込まなくても…、と言われても、この親子が数年後に笑顔で過ごせるようにするにはどうすればいいのかを考えると、自分の負担がどうのこうのということよりも、まずこの親子が本当に必要としている援助を優先させたいと思うのです。

 同業者の中でも、こういった意見の相違はたびたび起こります。

 どっちにすればいいのか迷うとき、私はADHDの子を持つ親としての立場に返って考えてみるようにしています。私がこの子の親だったら、どういう事にたいして不安に思うのか、どうしてほしいだろうか、と。

 発達に問題がある、と指摘された時の親としての心情がどうだったか、振り返ってみるのです。

 問題のある子供の子育てが大変であるという事は、大抵の同業者は理解します。そして、具体的にアドバイスする人もいるし、苦しい気持ちを受け止めようと努力する人もいて、その後の援助というのは、私たち一人一人の感性の違いでも違ってきます。

 普通に元気で育って欲しい、という親の願いは、問題を指摘されることでぐらつきます。「私の子育ての何が悪かったのだろうか」と考えもするし、自分を責めたくもなる。親にとって、子供の問題を知ることは、何かを失うことでもあるし、重くなる責任を自覚することでもある。そして、これまでのやり方を変えるように要求されるけど、はっきりした方向性があるわけではないので、どうしていいか分からない時期がやってきます。

 そういう、変化の時期を保護者が乗り越えていけるように援助することは、子供の成長にとっても大切なことなのです。
 
 同業者の中には、保護者の気持ちを受け止めることで、保護者自身がちゃんと状況の変化に対応できるようになるのではないか、と考えている人も多いです。あるいは、自分なりの方法を見いだせるように援助することで、乗り越えられるという意見もあります。

 私は、個人的な経験から、その前に、親が十分に悲しめる時間が必要であると考えています。そして、その悲しみをなくしてしまうのではなく、生きる力に換えられること、言いかえると、悲しい気持ちは人を援助するためのエネルギーに換えられることを、その人自身が知ることができるように、働きかける必要があると思います。

 そうして始めて、子供の状況を受け入れられるだけでなく、子供のいる生活を再び楽しいと思えるようになるのではないか、と最近考えています。


(続く)


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ぴょろ、転校する(2)

 ぴょろは以前、私立の小規模の学校に通っていました。
クラスは各学年1つづつ、全校でも130人程度の、こじんまりした小学校でした。

 一応、小・中・高一貫教育なのですが、中学校から寮生活になるため、クラスの半分以上が別の私立中学を受験を予定しています。

 そのため、6年になると、ほとんどの子供たちが受験対策のため塾に通っています。

 校区が広いため、これまでは友達と遊びたくても、土曜日か夏休みなど長期のお休みでないとなかなか時間がとれず、1学期の大半は、学校から帰ると一人で過ごしていたぴょろ。体操クラブと公文の日以外は、配偶者が夜かえってくるまでは、自分で宿題をして、それからゲームをやる、という過ごし方をしていました。

 転校して、学習の進度が違うために遅れがでてしまったため、とうとうぴょろを個別指導をしてくれる塾に通わせることになりました。

 でも、塾は週2回、夕方6時からなので、それまでの時間は友達と遊ぶこともできるし、好きなゲームもやることができます。

 また私の仕事は木曜日以外はだいたい5時前に終わるため、ぴょろが家に帰る頃には家にいることがほとんどです。こうして、転校に伴い、ぴょろが家に一人だけ、という時間はほとんどなくなりました。

 仕事と家事と、その合間に勉強という忙しい毎日ではありますが、ぴょろが一緒に住むようになって、心配事は大分少なくなりました。

 外野(配偶者と私の実母)にはかなり揺さぶりをかけられ、転校の当日まで二転三転した今回の出来事でした。それでも、ぴょろにとって、今まで沖縄では体験できなかったことが体験できて、新しい人間関係ができていく、そのことはきっと、長い目で見るとプラスに働いていくのではないか、と思っています。

 ぴょろが小学校を卒業する頃までには、私の進路(来年度の仕事)も決まっているといいなあ…。

 その前に、来月の臨床心理士資格試験、がんばらなくては。


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ぴょろ、転校する(1)

 久しぶりの書き込みです。先週土曜日に引っ越してしばらくインターネットが使えませんでした。

 やっと電話工事が終わった、と思ったら、今度は設定の仕方が分からず、結局@niftyに電話で問い合わせ回線がつながったのがおとといの夜でした。

 昨日は、定期試験の追試と、講義と、面接で一日が終わってしまい、PCにはさわらずじまい。今日はぴょろを実家に預け、一日K市内の病院でお仕事をしてきました。アパートに戻ってきて家事の残りを片付け、やっと机の前に座れたのが10分くらい前のことでした。

 ほんとに、あっという間の一週間でした。

 ぴょろは予定通り、月曜日からK市内の公立小学校に転校しました。小学校を選ぶのに、地元の人に聞いたり何度も様子を見に行ったりして、1ヶ月以上考えて決めた場所でしたが、それでも大丈夫という気持ちが半分、本当に大丈夫だろうかという不安が半分ずつでした。

 ぴょろは転校をいやがってはいませんでしたが、始めての体験で、「うまくやっていけるだろうか」という不安はあったようでした。

 1日目は、緊張した顔で学校へ登校しましたが、帰りには同じクラスの子供たちが数人、アパートの玄関までついてきました。教科書が、前の学校と違っていて、習わないまますでに終わってしまったものがいくつかあったらしく、宿題の漢字練習も「こんなの習ってないよ~」とぶつぶつ言いながらノートに書き込んでいたぴょろ。

 2日目、運良く?台風で学校はお休みとなりました。一日中どこにも出られず、退屈な日となりました。

 3日目、1日目と同じクラスの子供たちと一緒に帰ってきました。彼らの家の場所を確かめるから、と、鞄を玄関に置くとすぐに出かけていき、20分くらいで戻ってきました。その日、水泳の記録会があり、「思ったより泳げた」、とうれしそうに話してくれました。「学校はどう?」と尋ねると、うーん、まあまあかな、というお答え。

 4日目、学校の授業にも大分慣れてきたらしく、宿題は学校で早々に終わらせ、新しい友達と夕方まで楽しそうに遊んでいました。

 5日目、数人のグループで一緒に帰ってきたあと、友達の家に遊びに行き、塾の時間ぎりぎりに家に戻ってきました。このあたりの方言をいくつか覚えてきて、「~はこういうんでしょ」と私に披露してくれてました(私はとっくに知っているんだけど)。


 結局親が思っていたより早く、学校生活になじんでいっている様子です。適応力があるというか、以前より少しだけのんびりできるからなのか、、かえって新しい環境を楽しもうとしているのが伝わってきました、


 続きます。

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ありがとう

 今日は、今週の山場とも言える日です。

 大学で、2年次の前期定期試験の監督と、続いて4年次の後期の講義が始まります。看護士のタマゴさんたちに、臨床心理学を教えます。

 明日は、大学院生(心理学)に、講義をする予定です。

 それが終わったら、お引っ越しです。ぴょろは今日、小学校で最後のご挨拶をしてから、K市にやってきます。

 9月1日の、学会での発表は、無事に終わりました。日帰りは結構きつかったけど、ポスターはいろんな方に見てもらえたし、PTSDやEMDRに興味があると言ってくれた参加者とお話もできました。

 同じゼミの仲間とも会えたし、久しぶりに教授とも会えたし、何はともあれ、終わってほっとしました。

 一番驚いたのは、学会に行く日の朝、私の携帯に師匠のメッセージが入っていたこと。師匠は「のだめカンタービレ」の千秋に性格が良く似ていて(ホント、そっくり…)、自分からは用がない限りはめったに連絡をしてくることがありません。師匠からの電話は大抵事務的なこと。そんな師匠なので、今までこういう、ご丁寧な励ましをもらったことはありません。(人をほめるのが苦手らしいので)だから、頑張って、という留守録のメッセージを聞いて、素直にうれしかったです。(メッセージを聞いたのは、学会が終わってから、でしたが…)

 昨日は、市役所でぴょろの転校手続きの書類をもらい、来週月曜日から通う小学校にあいさつに行ってきました。校長先生と担任の先生にお会いして、ぴょろのADHDのこと(多動はかなり落ち着いたけど、注意力にムラがあることなど)を説明してきました。

 校区内の中学校でスクールカウンセラーをやっていることもあって、校長先生は私のことをすでにご存じだったので、話しやすかったのは、本当にありがたいことでした。一学年2クラス、人数もそれほど多くない、こじんまりとした学校でした。ぴょろにとって、言葉も文化も大分違う、新しい環境に慣れるのは大変かもしれませんが、これがぴょろにとって、いい体験になってくれれば、と思います。

 大学で講義を持てるように配慮して下さったのは、ゼミの教授ですが、そのゼミの教授を紹介して下さったのは師匠で、師匠を紹介してくれたのは私の友人で、私の友人と出会ったのは、前の大学院の授業で、大学院に進学することをすすめてくれたのは、大学の特殊教育の教授で、その教授と出会ったのがESLの授業で…と一つ一つ遡っていくと、実にいろんな人の輪に支えられていることに気付かされます。

 ブログを始めてから、もっと人の輪を意識するようになりました。私の記事にコメントして下さる方、私が出かけていってコメントしたときに、ちゃんと返して下さった方、トラバして下さった方、リンクして下さった方、皆さんそれぞれの顔は見えませんが、何かでつながっているという感じがします。

 いろんな励ましやご意見を、ありがとうございます。

 今は、とにかく目の前のことから一つ一つ片づけていくしかない、そんなせっぱ詰まった状況ではありますが、小さな事でも、心から喜べたり感謝できる、そんな感覚を取り戻していけるように、これからもいろんな人との関わりを通して、大切な事を学んでいけるように、自分なりのペースで歩いていきたいと思います。

 明日から7日までは、ADSL回線が使えなくなるので、ブログはお休みします。

 みなさんも、よい週末をお過ごし下さい。


 

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後悔のない選択

 昨日、ぴょろを連れて一度自宅に戻ってきました。
今日から新学期ですが、新しい学校へは来週から通うことになっています。

 今日はこれから日帰りで東京出張です。学会でポスター発表してきます。この前、以前にお会いしていたクライエントからメールをもらい、サーチエンジンで検索していたら、偶然私がある学会で発表した抄録か何かが出てきたらしいです。こういう事もあるので、もちょっと頑張っていい発表をしなくては。

 今回の学会も、参加するしないで、昨日までもめました。最悪の時は、ぴょろを連れて行くことも頭においていました。途中でキャンセルすることができないのに、ぴょろを預ける所が見つからず、日程的に日帰りが難しいところを無理に日帰りにして、ぴょろを自宅に連れて帰ってくることで、何とか決着を見ました。

 最近の私は特に、何かを決めるときに、とても揺れ動いてしまいます。一度こうしよう、と決めても、それをぎりぎりまで引っかき回す配偶者の存在も大きいですが、それだけではありません。

 RASPBERRY*REDの木苺さんが「喪の作業」で触れておられたような事と、非常に似通った出来事が過去の私にもあって、家族にも影響が及びそうな選択をすることが、苦手になってしまった、というのもあります。

 私の父親は、私が大学3年の終わりに突然倒れ、余命が1年あまりであると知らされました。一家の大黒柱であった父親の、命に関わるような病気を告知されて、母親は動揺したのですが、それでも奇跡が起こることを信じて懸命に看病に励んだようでした。

 当時、私は県外の大学で学んでいたのですが、4年になって突然、授業料以外の仕送りを切られてしまいました。入院に多額の費用がかかるため、休職で殆ど収入がないから、というのが、仕送り中止の理由でした。しかし、4年になると、朝から夜中まで実験をし、その合間に授業を受けるという超ハードなカリキュラムだったので、アルバイトができず、仕方なくアパートを引き払い、状況を理解してくれた知人の家に卒業まで居候をしました。

 大学院に進学したかったのですが、それもあきらめました。毎日、電車代を除くと自由になるお金が100円くらいしかなく、知人が見るに見かねて毎日お弁当を持たせてくれていました。研究室の先輩や教授には、父親の病気の事を話すことはできず、ただ、卒業論文を無事に書いて卒業することを考えて過ごしていました。

 そんな辛い時期でしたが、当時精神的に支えてくれる彼の存在が救いでした。今のように携帯が普及していない時期で、連絡はたまの電話だけでしたが、彼の励ましと知人の援助のおかげで、就職も内定しあと少しで卒業というところまで何とか持ちこたえることができました。

 そんなある日、私の元へ、父親からの手紙が届きました。明らかに弱々しい筆跡で、とても短い文章でした。それは、県外で就職を決めた私への、厳しい叱責ともいえる内容でした。卒業したら必ず自宅へ戻って自宅から通える所で仕事を探すように、もし、私が家族の状況を顧みずワガママを通すなら、親子の縁を切る、と書かれていました。

 それを読んだ私は、非常にショックでした。母親とはうまくいっていないので、卒業しても自宅に帰るつもりはありませんでした。でも、父親は、私が家族を(経済的にも精神的にも)支えることを切望していました。それは、その当時の私には、無理なことだと思いました。結局この手紙は父親の遺書となり、父親の言葉はその後も私の心の中にずっと重く残ってしまいました。

 自分の希望より家族の事を優先させなければ、と結局内定を断り、卒業後自宅へ戻りました。その直後、父は亡くなりました。葬儀が終わって落ち着いた頃から、母親の激しい非難が始まりました。大学にいくらお金がかかったか(国立大学の理系だから、高くはないけど別所帯だったから生活費がかかったと言われた)、どんなに母親が苦労したかと、何度も責められました。彼への電話は禁止となり、結局こちらから無理矢理に別れました。一度に、いろんなものをなくして、それでもキレる母親の言葉を静かに受け入れ、家族の希望通り自宅から通える所で仕事を見つけました。

 母親が妹の前で「あんたが父親を早死にさせた」と言ったことがありました。それから、将来のことを考えて大学に進学したはずだったのに、それが逆に家族に迷惑をかけてしまった、と思うようになり、私はどうすればいいのか分からなくなってしまいました。

 そうして、悶々と考え、自分を責め、思い詰めた私は、2度ほど自殺を試みました。

 でも、気がつくと、病院で点滴されて寝ている自分がいました。あー、死ぬこともできないのか、と。それからは、ひたすら自分を殺すようにして、母親を怒らせないように平和に生きることを選んできました。父親の遺書と、母親の言葉がずっと引っかかり、家族が大変なのに自分だけが楽をしてはいけないと思うようになってしまいました。

 それ以来、私は、何かを選択しようとするときに自分がどうしたいのかを考えられなくなり、人の意見に揺れ動いてなかなか決断ができなくなってしまったのです。結婚という、人生の大切な選択でさえ、家族が反対しなかったから、という理由で決めてしまった。

 今回、ぴょろを転校させるかどうか、というのも、家族に与える影響を考えるとなかなか決断できませんでした。私が仕事をやめて家に帰りさえすれば、全てはうまく収まるのではないか、と考えました。家族の為に、自分のしたいことをあきらめるのは当然、という気持ちがあったから、多分師匠の助言がなかったら、今頃仕事をきっぱりやめていたかもしれません。

 以前の事を話した時に師匠は、「あなたは何をやりたいのか?」と尋ねてきました。大学で教えたいんです、というと、それなら何故途中であきらめるのか、と切り替えされました。師匠は、「クライエントに言っていることが、何故自分に当てはめて考えられないの?」とひとこと。

 クライエントには、自分の本当にやりたいことを選んだ方がいい、と言いながら、自分は反対のことをしてきた、それを鋭く指摘されたのです。

 難しい選択であればあるほど、自分の意志を曲げた選択はしないほうがいい、と分かってはいるのです。でも、どうしても、家族優先でないと私はワガママになってしまう、という信念を変えられずにいました。だけど師匠の言葉がきっかけで、「これでいい」と思えない選択はしないほうがいいと気がつきました。

 父親は、自分がいなくなったあとどうすれば家族が幸せに暮らせるか、自分なりに考え、そして私に手紙を書いたのだと思います。でも、父親は、母親と私の間に何があったのかを全く知りませんでした。もし、知っていたとしたら、同じ内容になったかどうかは、あの世にいって彼に聞いてみないと分からない。

 一方的に言われた事は悲しいことですが、父親にとっては自宅に戻って家族が一緒に住むのが一番幸せだと信じていたことも、彼の心情も今は理解できるので、もう、これ以上遺書に振り回されなくて生きていける気がしています。(父親が許してくれるかどうかも、聞いてみないと分からないけど)

 どの道を選んでも、正しいとか間違いという視点で見るのでなく、「これでよかったんだ」と思えればそれでいいと、今はそう考えることができるようになりました。間違っても、そこから学べれば、決して無駄にはならないし、そう思えばこれからも後悔なく何かを選んで決めていくことができるのではないかと思います。

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