今日、予定していた約束がキャンセルとなり、少し時間が空きました。
飛行機は2時、準備の時間を除いても、書き込みがちょっとだけできそうです。
佐世保の小6女児同級生殺害:長崎新聞HP
これまでの一連のニュースは地元の新聞社のHPにまとめられているので、こちらを参照して下さい。
いろんなブログでも取り上げられ、いろんな専門家がコメントを述べているこの事件ですが、私なりの意見を少しだけ書いておこうと思っています。
私にとっては、なぜこの事件が起きたのかということより、これからどうすればいいのかということについていろいろと考えることがありました。
まず、加害者である12歳の児童ですが、反社会的人格障害だとか、境界型人格障害では?というご意見もあるようですが、精神鑑定などをやってもおそらくあまりはっきりとした診断のつけられるようなものではないと個人的には思います。
ホルモン説だの、生物学的脆弱性だの、Biologicalな原因節も出ていますが、それも本当に当たっているのかどうかは分かりません。
思春期の始めの頃には、身体が急激に変化する時期があって、脳の視床下部や扁桃体などの旧皮質が敏感になり、大脳皮質、特に眼窩前頭皮質や帯状回の発達が追いつかない時期というのは確かにあります。
しかし、程度の差はあっても、これは誰にでも起こります。それだけでは事件の説明はつかないでしょう。
私が最も心配していること、それはこの児童が非常に淡々としていることです。おそらく元々あまり自分の感情や意見を表現することが得意ではない上に、人と信頼関係を築くのが難しい子ではないだろうかと思います。
HP上で公開されている詩などの文面を見る限り、かなり自己評価の低い子のようです。
これまでに、中学生や高校生の何人かとメールのやりとりをしていて、とても似た部分があるように思いました。自分を出せず、周りにはとても気を遣い、一見するとすごく大人びた態度を示したりするけれど、内面では大人の部分と子供の部分がアンバランスで、自分の事が嫌い、誰かに依存したいけれどその反面人を心底信じることができない…。
時々激しい攻撃性を向けると思うと、一転して自分を激しく責める。自分がなくなりそうな不安や誰にも分かってもらえない孤独感を抱えている。
何人かの生徒が今も時々私に「誰か助けて」、とメールをしています。彼らは自分を傷つける事で自分を保とうとしています。
今回の事件では、攻撃性は同級生に向けられ、殺人という結果に終わってしまいました。しかし、この児童はおそらく今度は同じ攻撃性を自分に向ける可能性が高いと思います。
本人のこころは今かなり脆い状態で、自分の行為を受け止めることも、そのために自分自身が深く傷ついていることも、まだ受け止めることはできないだろうと思います。
加害児童へのこころのケアがどうなされていくかはこれからだと思いますが、かなりIntensiveなケアが必要になるだろうと思います。この児童を何らかの形で支えていく複数の大人の存在が、この子がこれからこの痛ましい過去を背負っていくためには不可欠ではないかと思います。
さて、この事件は学校内で起こりました。返り血を浴びた児童を目撃した子供たちも、亡くなった児童と親しかった人たちも、事件の衝撃は相当のものであっただろうと思います。
ニュースを見る限りでは、今現在でも急性ストレス反応が出ている子供たちもいるようです。これから、1ヶ月までの間にもう少し増えるかもしれません。マスコミの対応次第では、子供たちのこころの痛みはさらに増す可能性もあります。
また、学校の教師にも、かなりの衝撃を受けておられる方が少なからずいると思います。
今は緊急支援ということで、臨床心理士や精神科医が介入しているようですが、この影響は長期間残る可能性があります。地域で支援体制を作り、6年生の子供たちが中学へ上がっても引き続き支援が受けられるようにしてほしいと思います。できれば最低でも数年間のフォローは必要でしょう。
子供たちだけでなく、教師や学校へのサポートも必要です。みんなで協力して支えていくしかないと思います。
亡くなった児童の家族のケアも、すぐにでもとりかかる必要があります。お父さんにとっては2重の喪失体験で、おそらく現在も心身ともにかなりのダメージを受けていると思います。
今回の事件は、原因探しはあまり役に立たないかもしれません。カッターを使った(小学校での)傷害事件は、私が小学生の頃にもすでに何件か起こっていました(ということは20年以上前ということです)。カッターや他の刃物を取り上げても、一時的な解決にしかならないような気がしますし、今回原因があきらかになり、仮にそれを排除できたとしても、それだけでは不十分な気がするのです。
こころの教育が言われていますが、人を殺しても自分を殺してもいけないということは、人の死を身近に見て、人のいのちには限りがあることを学ばない限り、本当の意味で理解することは難しいのかもしれません。もしそうなら、単に小学校のカリキュラムを変えるだけではなく、医学教育も含めて全体としてのいのちの教育そのものをもう一度見直すほどの大作業が必要になってしまうのかもしれません。
今の子供の変化は、社会の変化を如実に反映したものであり、子供を大切に育てていこうとする流れと、子供を食い物にしている現実のあやういバランスの上に成り立っているものであることを忘れてはならないと思います。
さて、私はこれまで3年間で、いろんな中学生や高校生との個人的なメールのやりとりを続けていますが、彼らはどうなっているかというと、そのうちの何人かはそれぞれに危うい時期を乗り越え、少しずつ落ち着いて今は将来の事を考えながら毎日を送っています。一人は大学進学をめざし、一人は資格を取り就職活動をしています。一時は自分を殺すかもしれないというところまで行きながらもなんとか持ちこたえた一人の生徒は、3年経って今は大分成長しましたよ、と電話で話してくれました。彼らに対して私がやったこと、それはもらったメールに返信をすることだけでした。私に知らせるまでは勝手に死ぬな、と何度も送りました。
今もまだ不安定な子たちはいて、メールのやりとりは彼らがメールをよこさなくなるまで続くことでしょう。
この加害児童の今の状態を理解するのは難しいかもしれませんが、少なくとも今回の事件が起こる前に行動の変化などのサインを何度も出していたようなので、その時にもし誰か一人でもこの児童の「助けて」というこころの叫びを受け止められていたら、もしかしたら防ぎ得た事件だったのかもしれない、という気持ちだけが残ります。
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