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他人を助けるために自分が苦しむ

 昨日、自宅に帰ってきました。お昼は、猫たちと私でのんびりすごし、夕方帰ってきたぴょろと2人で夕食を食べ、TVを見ながらくつろいでいました。

 そこに、結婚以来ずっと親しくしている友だちが2人で訪ねてきてくれました。私が、最近あまり連絡を取らないので、心配していたようです。”悩みがあったら何でも吐き出しなさいよ”、と言ってはくれるのですが、私は相変わらず口が重く、さらっと今までの事を話してあとは世間話をして終わりにしました。

 友人たちは、「無理しないで」「ゆっくり休んだら?」と言ってくれるのですが、そう言われても無理をしないと今の生活は続けられない。別の友人は、大学院やぴょろの話をすると、「がんばってね」と言ってくれるが、今はとうていがんばれる状況ではない。

 こんな私は、なんてワガママなんだろう…と考えていたら、カイパパさん「がんばれ」って言わないで 「がんばらないで」って言わないで、という記事を見つけました。

 相手は善意で言ってくれているのかもしれないが、それが自分を苦しめる、なぜだろう…とずっと考えました。

 今の私は、子供時代の虐待の後遺症(PTSD)、配偶者とぴょろのADHD、母親の問題(境界型人格障害)…とまさに三重苦の状態で、その結果としてうつになってしまっています。

 ところが、それを知らない人からは、こんな恵まれた環境にいるのに、感謝が足りないのではないかと言われます。(このせりふは配偶者もよく口にする)子供がいながら修士号をとり、さらに上の学位を目指して研究と仕事ができる機会が与えられている、それは、本当に感謝してもしきれないと思います。だけど、感謝はするけど、だからといってそれだけで問題の全ては解決しない。なぜなら、相手のあることだから、です。 

 周りから見ると、「自分の生き方を貫いている」ように思われますが、常に心は揺れ動き、家族を犠牲にしてまでこの生活を続けるべきかどうか、迷いに迷っているのが本当の所です。

 ぴょろが生まれてから、過呼吸とかパニック発作を起こしながら、虐待の記憶に悩まされながら子育てをしてきて、やっと落ち着いてきたかと思った頃にADHDだろうということが分かり、何がいけなかったんだろうと自分を責めながら、ぴりぴりした毎日を送ってきました。ぴょろはこれまで学校でも家でもいろんな問題を起こしているのですが、その度に先生や相手の親に頭を下げ、しつけのせいにされてもがんばりが足りないと言われても、黙って受け止めてきました。

 注意散漫なぴょろは、何事にも要領が悪く、教えても教えても同じ間違いを繰り返し、ケガも多い。だから、毎日心配をしない日はないです。中学を受験するのか公立に行かせるか、塾や体操クラブをどうするか、そして今回の「単身赴任」の決断も含めて、子供が落ち着いて過ごせるようにどうすればいいの?と自問の日々。知識やカウンセラーとしての経験が増えるほど、今後の事をどうしても考えてしまいます。思春期のぴょろが、その時期をうまく乗り越えられるかどうかという不安もあるし、お母さんが専門家である、というプレッシャーもある。

 その一方で、配偶者はマイペースを貫き通し、ぴょろのADHDも自分の事も受け入れられていないので、私がいくら説明しても、全く相手の耳には入らず、「考えすぎ」でおわり。子育てや今後の方針などで話があわず、しかも、「配偶者は宇宙人」で紹介したような困ったことが起きながらも全く自覚がない。誰に相談しても分かってもらえないだろう、というあきらめと、「私ががんばるしかない」という責任感だけが残ってしまう…。

 その上に、実の妹がうつになり、母親のボーダーが悪化し、一時は大荒れの状態になりました。それが落ち着き始めた頃に、今度は私がうつになったんです。

 私の周りにはこのように「特別な配慮を必要とする人たち」がいます。そして理解するのも援助するのも私の役目。私は完全に孤立無援の状態に陥っていました。そんな私を支えていたのは、カウンセラーとして「人の役に立てる自分がいる」という事でした。

 だけど、それもまた大きな落とし穴だったのです。

 彼ら(ぴょろ、配偶者、実家)を助けたいという気持ちまではよかったのですが、責任を背負いすぎてしまい、援助するために自分を苦しめてしまっていたのです。確かに彼らは、私を必要としています。でも、私が思っている彼らの「必要」と彼らが本当に必要としているものは違っていたのではないか、そのことに気がついたのは、今朝高山さんの「他人から必要とされる事の自分の必要性」を読んだときでした。

私は病気を罹患した時から、医師に口酸っぱくして言われていたことがある。それは、「人から頼られないと存在感がもてない自分にならないように気をつけなさい」と。

 病気を抱えることで、引け目を持って生きていかなければならない現実がある。これはどうしても越えられないものだと思う。だからといって、自分の存在が人に頼られることでしか証明できないと考えるのは、少しゆがんだ心の状態なのかもしれない。

 この言葉は非常に痛いですが、私の本質をずばりついていると思います。確かに、彼らから頼られることが自分の存在価値を確かめる手段になっていました。カウンセラーとしても、援助者としての自分というのはアイデンティティーの一部をがっちり占めているわけで、他人を援助する仕事にあるなら身近にいる彼らを助けるのは当然である、という気持ちがあったわけです。

 それは、決して間違っているわけではなく、援助することの喜びがあるからやってこれたという一面もあります。しかし言い方は悪いですが、その一方で相手に頼られる自分でいることで、私は「自分が誰かに必要とされていたい」という欲求を満たそうとしていたのかもしれません。そのために、私には必要以上に背負いすぎていたものがあって、その結果助けることが自分を苦しめることになっていたのではないかと思います。

 そんな状況だと、周囲が私の状況を理解しようと歩み寄られると逆に苦痛に感じるのも仕方ない気がします。励ましのつもりの言葉が、逆につきささるように感じる、善意なのに善意と受け取ることができない、どうせ誰も私のことなんて分かるはずもない…そう思うときは、自分が何に苦しんでいるのかもう一度考えてみる必要がありそうです。

 私の顔が苦しそうな時、ぴょろは僕のせいでお母さんが苦しんでいる、と思うようです。ある自閉症の子供が、両親が子育てのことでケンカをしていたのを見て、後から「ぼくが生まれてごめんなさい」という手紙を書いたという例を聞きました。知り合いの大人の自閉症の方も、「自分がいることでお母さんに迷惑をかけている」という手紙を私にくれたことがありました。援助する側が助けることに苦しみを感じれば、それは援助される側に伝わってしまい、援助される方も苦しんでしまいます。(老人介護でも同じような話はよく聞きます)

 私が病気を持っていること、そして発達障害を抱える配偶者とこどもを持っていることで感じる負い目というのはたしかにあります。障害を持つ人が家族にいると孤立化しやすいのも事実です。どう育てるか、どう助けていくか、どうやって社会と折り合いをつけていくのか…それは毎日のことであり、終わりがないようにも感じます。だからこそ、自分で抱え込んで倒れないように、時には助けてもらうことも必要なんだと思います。

 そして、思うようにできない自分を責めないことも。

 最善は尽くすけれど、自分の限界を知っておくこと、そして何のために助けるのかを見失わないように気をつけなくてはと思います。

 さて、がんばってともがんばらないでとも言われたくない、という事を言われたら、周りはどうすればいいのでしょう?

 EMDRの治療中に、私は辛くて泣いてしまったことがありました。その時に、治療者は、ただ黙って向かい合わせに座っていました。この先生が言ってくれたのはたった一言、

 「がまんしなくていいよ」

 その言葉を聞いて、さらに泣き続けた私が泣きやんでみると、そこには涙をハンカチで拭いている治療者の姿がありました。私にはそれが本当にうれしかったし、そのことは多分一生忘れないだろうと思います。

 何かを言えないなら、ただ黙ってその場にいるだけでもいいと私は思います。一緒に泣くことがあっても、それもいいと思います。

 カイパパさんにも、そして同じような状況の方にも、私なら多分、「辛いね、がまんしてたんだね」とだけ言うだろうと思います。こんなときは理解より共感、それが私の考え方です。

 これからも、多分、公私ともに援助者としての役割は引き受けて行かざるを得ないでしょう。ただその前に、同じ間違いを繰り返さないために、今一度原点に立ち返ってみようかと思います。

 

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Comments

トラックバックありがとうございます。
 私は病気を抱えて10年目のものです。その間に、洗脳されたり共依存になってしまったりと、さらには神戸の震災で、やっていたボランティアたちの去就も見てきました。
 その中で見えてきたものは私は人の役に立つんだから、がんばると言う気持ちが、一番危ないんだなぁと感じたのです。私も大学卒業後には福祉か医療の分野へ行こうと考えたのですが、この分野にいくアトピー患者の多さを見て、改めて自分の問題に取り組もうと、ずっと、活動してきたのです。
 私の場合、ホームページで自分が揺れ動く気持ちを堂々と書くことが一番大事で、人助けをするんだったら歯を食いしばってがんばれって言うことをもうやめようと考えているのです。逆に周りは気を使ってくれるのですが、私一人が考えるのではなく皆で解決していく姿勢をとっていくための一環でもあるのです。
 所詮はただの人間なのですから、弱いものであると言うことを露呈することが患者会を主催するのに大事なんじゃないかなぁと思っています。
 ちなみに当方の患者会はセルフヘルプシステムの導入を目指しているのでその点なのでご助言いただけると幸いです。
 senaさんがさらに元気になってもらえることを祈りつつ失礼させていただきます。

Posted by: 高山家 | 2004.05.31 at 09:45 PM

ありがとう。

Posted by: カイパパ | 2004.06.01 at 07:38 AM

>高山家さん、トラックバックをさせていただいて、またコメントにも書き込みをありがとうございました。うちのぴょろもアトピーの治療を受けていましたし、食事療法だのいろいろ試した時期もあったので、他人事のようには思えず、時々拝見させていただいています。
私もアルコール依存症の家族会やDV被害者の自助グループなどとの関わりもあって、高山さんの活動も参考にさせていただきたいです。
高山さんのずばり本質をつく一言が印象的です。やはり、援助者としての立場から、自分の弱さや至らなさを痛感する事があって、そういう時に原点に立ち返る力を与えてくれるような感じがします。
これからも、よろしくおねがいします。

>カイパパさん

 スランプの時は、よっこいしょと腰を下ろして、しばらく道を眺めてみることも必要なのでは?

 何か大きな飛躍や成長の前に、必ずこういう時期があるような気がしますよ。

 焦らず、マイペースでいきましょうね。(^^)

Posted by: Sana | 2004.06.02 at 04:36 PM

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