ガンジーさんは、ブログを始めて知り合った学生さんです。
そして、うつ仲間でもあります。そんなガンジーさんがうつ病とのつきあい(4)で紹介ししている中島敦の『山月記』の一節を、私も読ませていただきました。
「己の珠に非ざることを惧れるが故に,敢えて刻苦して磨こうともせず,
又,己の珠なるべきを半ば信ずるが故に,碌々として瓦に伍することも出来なかった」
「益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果となった」
「事実は,才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と,
刻苦を厭う怠惰とが己のすべてだったのだ」
人は「あるべき理想の私(Ideal self)」の姿を追い求めます。強くありたい、人に信頼される私でありたい、といった、好ましい自己像を誰もが持っています。しかし現実は思うようにはいきません。「現実の私(Real self)」と「理想の私」の間には少なからずギャップがあり、それが大きいほど人は苦しみを感じる、とカール・ロジャースはいいました。
人間にとって、自分の弱さや欠点を認めることは、難しいことです。相手の弱さや欠点はよく見えるが故に、自分の中に同じものがあることに気付きにくいのかもしれません。
「私は”理想の私”でなければならない」という気持ちが強すぎると、「理想の私」にそぐわないものを否定しようとします。そして、極端な場合、その「そぐわないもの」を鏡のように他人に映し出すのです。そして、自分の中にあるはずの問題が、他人の問題に「すり替わって」しまうのです。
例えば、「私は強い人間でなければならない」と考えている人が、飲み会の席で酔って同僚に弱音を吐いたとします。しかし後からその事を聞いた本人は、弱音を言ったのは同僚の方だ、と反論するか、あるいは同僚がうそを言った、と怒り出す…といった感じです。
人の弱さや欠点とは、光に向かって歩くときに自分の後ろにできる、影に似ています。ものに光があたると必ず影ができます。人は強さと弱さ、長所と短所の相反する特質を必ず持っています。影とはある意味「見たくない自分の姿」なのです。しかし、人が歩いても走っても、影はどこまでもついてきます。
「見たくない自分の弱さや欠点」を否定することは、自分の後ろにできている影を、「自分のものではない」と言うか、あるいは影を自分から切り離そうとするのに似ています。
しかし、自然の法則上、影を切り離すのは不可能ですし、影はどうやってもその人のものです。せめて人は、影を見ないでおくことしかできません。
弱さや欠点から目を背けることは、一時的に人を苦しみから遠ざけ、「臆病な自尊心」を満たしてくれるかもしれませんが、問題はまだ「そこにある」ままです。影を見ずにひたすら逃げても、影は振り返ればそこにあるのですから。
「回復には必ず痛みを伴う」でも述べたとおり、何か壁にぶち当たりそれを乗り越えるためには、どうしても苦痛を経験しなければならないのです。自分が冷静になればなるほど、自らの弱さと否応なしに向き合わざるを得なくなります。
その時に、そこから逃げ出してしまうと、回復は遅くなります。
乗り越えるたったひとつの方法は、「光に背を向け、自分の影と向き合うこと」なのです。
そこから、必ず何かが見えてきます。そしてその先には新しい道があることに、気がつくときがやってきます。
人は人生の中で、必ず何度かはこのような体験をするようにできているようです。
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