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タイミング悪い…かも

 医療心理士資格認定の講習会を受けるために、東京へ行ってきました。

資格の話はややこしいので、その話題ではなく、帰りの飛行機の話です。

ドルフィン vs マンタの話題はEvergreenに載せますが、今回東京からの最終便でマンタ(JTAのこと)に乗りました。その時に、フライトアテンダントのお姉さんが、離陸直前に、「離陸して約1時間くらいで、気流の悪い所を通過する予定です」とアナウンスしてました。

ところが、離陸してすぐから約1時間近くの間、天気がいいにもかかわらずかなりがたがたと揺れていました。そしてそれからは、気流は安定し快適な空の旅に。

約1時間くらいで…じゃなくて、「約1時間の間は」ではなかったかと思っていたら、今度は着陸する30分くらい前になって、再び飛行機ががたがたと揺れ始めました。…が、その時にはベルト着用サインがつかず、降りる20分前にランプが点灯し「この先降下に際しまして、揺れることが予想されます」とアナウンス。

ところが、実際には、着陸直前まで大きく揺れることはありませんでした。むしろ上空にいたときの方がかなりゆれていたような。

何だかタイミングをはずされたような感じで、さすがのんびりマンタだなあ、と思ってしまいました。

ドルフィン(ANKのこと)にも、怖い思い出があるんですが、それはまたの機会に。

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がんばりすぎて疲れ果ててしまわないために(4)

 カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクルの「チャレンジド=挑戦を受けた人(1)」でカイパパさんが触れておられたAtopic Informationのお言葉に対して、私なりの意見を、ピアノを例にとってお話しようかと思います。

 私は4歳からピアノを習っていて、途中2度の受験と大学進学のブランクはあったものの、社会人になっても結婚してもずっと続けています。今は、サイドビジネスでピアノを教えてもいます。仕事が忙しいので練習時間は限られますが、電子ピアノという便利な道具があるので、ヘッドホン使用で真夜中でもピアノを弾いたりします。

 今どのくらい弾けるかというと、ショパンのエチュードが3分の1程度、です。プロになるとかそういう気持ちは最初からないので、技術的には???ですが、レベルでいうと上級の真ん中あたり、多分、芸大を出ていればそこそこに音楽で食べていけるくらいだというと分かりやすいかも。

 4歳の時は、まだ手が小さくてピアノの鍵盤をうまくたたけないので、最初はオルガンで、しかも右手でドレミを弾くところから始めました。バイエルという初級の教則本の途中まできて、引っ越しのために2年間中断し、小2でもう一度再開したときは、またはじめからやり直し。毎日やらないと、どうしても忘れてしまうからです。

 始めて何かを身につける上で、スランプは付き物です。私の場合、以外に早くやってきました。

 バイエルは途中で急に難しくなる箇所がいくつかあります。そこに来ると何度練習しても同じ所でミスをする、それが何度も繰り返されると、苦手意識が出てきて、弾くのがだんだんおっくうに。何十回弾いてもやっぱり思うように弾けないと、小学4年生の私はさすがにピアノに八つ当たり。「もう弾かん!」

 それでもやっぱりできないとくやしいので、しぶしぶ練習する、そんなことがしばらく続いたあと、思いがけずすらすらと弾けるようになりました。そうするとうれしいので、また次の曲を練習したくなるもの。その時は、辛かったことはどこかに吹き飛んでいました。

 その後も何度か大きなスランプや練習のブランクによる後戻りを経験したのですが、多少いらつく事はあっても何故かやめようと思ったことが一度もないのです。

 この半年以上、ショパンの「革命」というエチュードを練習しています。これは私にとっては少々ハードルの高い、つまり難易度の高い曲です。半年やってますが、いまだに弾いていてちょろりと引っかかる部分が3カ所ほどあります。練習はどうかすると5時間を超えることもあります。なら、半年もやってて何で弾けないの?と思う人もいるかもしれません。

 ピアノは練習が命です。だけど最初からいきなり難易度の高い曲にチャレンジするわけではありません。最初は易しいところから、出来たら次、というように少しずつレベルを上げていきます。一つの曲を練習するときでも、はじめから終わりまでをいくつかのブロックに分けて、苦手な所は右左別々に練習するところから、あるいは速度をかなり落としてから始め、出来るようになると徐々にスピードを上げるのです。

 この曲に関しては、1年くらいで弾けるようになればいいや、という気持ちで練習しているから、弾けないことについての焦りは全然ないのです。数えたことはないですが、多分、苦手な部分はこれまでに万がつく回数を繰り返し練習していると思います。

 しかし、繰り返しの練習に飽きたことも、自分を追いつめたことも全然ありません。

 ピアノを弾いている間は、ただ弾く以外、何も考えていないからです。間違うかもしれない、と言うことも考えていません。体が覚えてしまうまで、淡々と同じ事を繰り返しているだけ、です。

 ピアノを、誰かのためにやっているという気持ちは、今まで全然ありませんでした。人前で演奏して喜んでもらえたときに、よかったと思うことはありましたが、基本的に練習は自分のためにやっている、と思っています。だから、ピアノを弾くことそのものが、楽しくて仕方ないんです。

 また、上手い下手の基準を、他人との比較に置いたこともありません。誰かと競争して弾くピアノは、決していいものにはなりません。ピアノは、自分の内面がはっきり出るから、聞く人が聞くと「違うでしょ」と言われる。

 ピアノの世界でも、全部の曲が同じように弾ける、ということはまずありません。得意なもの、苦手なもの、といろいろです。今までに、技術的な理由で断念した曲もいくつかあります。また、今の私の技術では、「超テクニック」と言われるリストの曲などは、引きこなすのは無理だと思います。

 ピアノをずっとやってきて、実感したことは、課題曲が弾けるようになるとか、目標を達成するというのは、一つのステップに過ぎないということです。弾けなかった時でも、練習した分だけ私個人が得たものが大きく、この点では努力は人を決して裏切らないと思います。

 そしてもう一つ。調子が悪いとき、うまくいかないときは必ずあるけれど、その時にどのような態度を取るかは自由であるということ。練習をやめるもよし、続けるもよし、どれをとっても正しいとか間違いというのはないです。「目標達成に至らなかった」ときに、自分に限界を設けたり自己破壊的な行動に走るのは、できた他人と比較している時か、あるいは「この状況は一生変わらない」と考えている時か、あるいは正しい・間違いの基準で結果を判断しようとしている時がほとんどのような気がします。

 スランプがないとピアノは上達しません。それと同じように、弱さがあるからこそ、人は成長できるのでは。

 「今できることに集中し」「結果ではなくプロセスを楽しみ」「ありのままを受け入れる」ことで、疲れず腐らずにチャレンジに向かっていけると思います。

 人ごとのようですが、これは私が私に言い聞かせていることです。

 

 

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がんばりすぎて疲れ果ててしまわないために(3)

 昨日の朝、久しぶりに体がしんどくて、子供を学校に送って帰ってきたあと、お昼近くまで寝てしまいました。

 その時に、小さかった時の夢を見て、はっと目を覚まして思わず携帯電話に手が。一瞬ですが、誰からも忘れ去られてしまっているような、ものすごい孤独感が襲ってきて、配偶者に電話をしようとしていたのです。

 たまたま近くにいた配偶者は、少しの時間だけ家に戻ってきてくれました。はっきりとした理由は言いませんでしたが、私の様子がちょっと違うと思ったのか、とにかく家族はいつも一緒だからね、と言い残して再び仕事へ。

 私にとってこの10数年は、虐待の記憶との戦いでした。

 子育てで味わう喜びよりも、子供を叱るたびに小さな自分の姿と重なり、自己嫌悪に陥る事の方がはるかに多かったし、親から受けた影響が、子供に及ぶことへの不安が大きく、親としての力のなさを感じることもしばしばでした。

 長い間、自分をどうにかして変えたい、という思っていました。何とかして、過去を断ち切って違う私として生きていきたいと…。大学院で心理学を学んだ理由の半分は、この答えを見つけるためだったと思います。心理の知識は、自分自身や周囲の人の状態を理解する上では役に立ったのですが、ひとたび身に付いて習慣となった考えや行動を変えるのは、頭で考えるほどはうまくはいかないという現実に何度もぶち当たることになりました。

 頭ではこうすればいい、と分かって出来なかったことは数限りなくありました。

 虐待の記憶と共に出てくる感情は、コントロール不可能に思えたこともありました。

 前向きにがんばろうとすると必ず、反対の出来事が起こるものです。私の個人的な事情を知る人からの裏切りも経験したし、同業者の中にはこういう問題を持ちながら心理士として仕事をすることに異論を唱える人もいました。そういう外部からの問題だけでなく、私の中にも「どうせうまくいかないんじゃないか」という見えない壁が。

 しかし、EMDR(眼球運動による脱感作と再処理)という治療を受けてから、段々と以前とは違った見方ができるようになりました。

 努力しても思うような結果が得られない時でも、できなかった自分に不満を持たなくなりました。

 早急に結果を求めることもやめました。時期が来るまで、待てるようになりました。

 やったことが必ずしも私が考えているような結果にならなくても、長い目で見てそれが私にとって最も必要なことである、と信じることができるようになりました。

 治療を受けたことで、「過去は変えられないが、そこからどう生きるかは自分で選べる」ということが分かったからです。

 「過去の虐待のせいでこうなった」という被害者意識を捨てるのは、かなり難しいことでしたが、私はこれを捨てることで、過去をこれからの人生にプラスに生かす方を選びたいと思いました。

 何で心理の仕事を選んだのか?と聞かれると今は「私のような人を一人でも少なくするため」と答えています。虐待の記憶は残り続けるだろうし、PTSDの症状も何らかの形で生涯残るだろうと思います。気分の浮き沈みがなくなることはないし、壁にぶち当たらずにこのまま順調にいけるとも思っていません。仕事以外では大いに疲れまくっている今でも、仕事をしている間は疲れを感じることも嫌だと思うこともなくやっていけるのは、この仕事が本当に好きであることと、私のような人間でも多少人の役に立てると思える瞬間があるからです。

 本当の「前向きな態度」とは何かをがんばって達成することとは少し違うと思います。転んでも、ぶつかって倒れてももう一度起きあがって、「また次からがんばろう」と思えるかどうか、もうこれ以上は進めないと思えるときに、あと一歩を踏み出せるかどうか、だと思います。(これは私が思いっきりへこんでいるときに、大学院の教授に言われた言葉)

 がんばりすぎて疲れ果ててしまわないためには、ほどよく楽天的であることも大切だと思います。自らがだめと思わない限りだめにはならないし、人生に無駄はないと思えるようになって、以前よりずっと毎日を楽しめるようになった気がします。辛いことでもずっと続くわけではないと考えられる自分が、ちょっと以外だったりします。

 

 

 

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がんばりすぎて疲れ果ててしまわないために(2)

 昨日は朝から大雨と突風で、台風のような悪天候でした。
そんな時に、子供を体操クラブの練習に連れて行くことになり、車を運転しながらいろんな事を考えました。

 なぜ私はこんなに疲れてしまったのか?

 留学中の方が、もっと時間に追われる生活であったにもかかわらず、4年間ほとんど疲れを感じたことがありませんでした。子供も今より小さくて、勉強も半端でなく難しかったにもかかわらず、楽しくていつの間にか時間が経っていたという感じでした。

 今も、大学院で研究や他の学生さんとの交流を持っている時は、本当に楽しいと感じます。

 それなら何で?…運転中に気がついたのは、疲れ果ててしまった原因は2つしかないだろうということ。

 一つは、やりたくないと思いながらもやらなければならないことがあり、いやだと思いながらも我慢して続けてしまったこと。

 もちろん、人生にはこういうことはつきものだし、好きなことだけやるというわけにもいかない。しかし、限度を超えての我慢は、心にも体にもよくなかったと今思います。

 一番辛かったのは、実家の問題でした。以前に「無理しない方がいい」でも触れたように、実家に行けばパニック発作を起こすほど体が拒否反応を示していたのに、なかなか滞在中のアパートを借りる決心がつかず、信頼する精神科医のM先生に相談をしたときには、症状がかなりひどくなっていました。

 実家に行かなければならなかったのは大学院とある病院への通勤の利便性から。自宅から通うにはかなりの距離があり、泊まりがけになるため、経済上やはり頼らざるを得ませんでした。そしてその病院で仕事をしなければならない理由とは、そうしないと今年臨床心理士の資格認定試験を受けられないから。

 しかし、アパートを借りたことと、大学院と同じ地域で今年4月から別の仕事が見つかったことで、この問題は解決に向かっています。

 そのほかに、どうしても断れず、無理をして続けていたボランティア活動も、別の人へ引き継ぎをすることになり、負担がかなり軽くなりました。

 自分でも相当無理しているという意識はあったのですが、やはり責任を途中で放棄するのは良くないという思いが強く、もう少し、もう少しがんばろう、と自分に言い聞かせながら、続けてきたことでした。今振り返ると、疲れがかなりたまって休息が必要な時でも、責任感だけで動いていたところもあったように思います。

 やはり「~しなければならない」は、長続きしませんね。

 もう一つの、そしてこれが疲れ果ててしまっている最大の原因だと私が思ったのは、ぎりぎりになるまで誰にも”助けて”が言えなかったこと。

 実家の問題(母親が境界型人格障害という問題を持っていて、過去長い期間虐待があったこと)は、誰かに話しても理解してはもらえないだろう、という気持ちもあって、M先生に相談するまではずっと沈黙を守ってきました。このような深い問題以外の、いつもなら気軽に話せることも、なぜか言えなくなっていました。

 約6年間、子供がいながら大学院で学生をやっているというのは、私の周囲では珍しいことで、特に去年から月の半分近くを大学院のある地域で過ごすようになって、子供と配偶者と一緒にいられる時間が少なくなり、中には親としての責任を最優先させるべきなのに、という厳しい意見もちらほら。私自身も、自分のせいで2人に寂しい思いをさせてしまってる、という後ろめたい気持ちと、(私の母親も含めた)周囲の冷ややかな反応に、時々自分のやっていることに自信が持てなくなったり、どうしても研究を続けたい自分自身を受け入れられなくなったりしていました。

 配偶者が、「あなたの学費のために働いている」とたまに言うのも、本人は励ますつもりだったのかもしれないですが、私には逆にプレッシャーに感じました。確かに周囲の理解と協力がないと続けられないのは事実で、それをありがたいと思えばいいんだ、と彼は言うのですが、私はそう言われるとよけいに「疲れているから手伝って」が言えなくなったんです。

 そうやって、家庭も学校も仕事も、どれもおろそかにならないようにいろんな気持ちを背負い込んだまま、「疲れた」と言えずに黙々とがんばった結果、ちゃんと補充をしないままエネルギーを吸い取られてばかりの状態になり、休んでも疲れがとれない、何もする気がおきないところまで、じわじわと落ちていったわけです。

 やはり、理解者の存在があると、一人で抱え込まずに済んだとおもうし、何かをやり遂げるにはぜひ必要なことのなのかもしれません。

 それから、"Skyward"2月号に掲載された、矢沢永吉さんのインタビュー記事にあった言葉で、

 「幸せのコツみたいなものがわかった、と思うんです。で、幸せになるかどうかって考え方ひとつでどっちにでも行くんです。ぼくは自分の人生はすべて正しかったって、いま、思える。18歳で夜汽車に乗って広島を出てきたことも、キャロルを作ったことも、裏切られたことも。なぜ正しいか?それはぜんぶ自分が描いた絵だからです。寄り道もいい旅だった。その旅があったから、今の場所にいるわけでしょ?みんな、間違っていない。自分を信じること。クヨクヨしないほうがいい。後戻りできないんだったら、自分をフォローしてあげたい。『お前、絶対間違っていないよ』って。自分を愛してあげる気持ちをもってたら、けっこう間違ってないですよ

 …私には、こういう態度が欠けていたと思います。

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がんばりすぎて疲れ果ててしまわないために(1)

 最近、Amazon.comで本探しをしたことがきっかけで、ほぼ日刊イトイ新聞の存在を知りました。

 今は、デリバリー版も利用していて、メールが届くのが楽しみです。
大抵は朝メールをチェックする時にデリバリー版を読み、ひと笑いしてから一日を始めます。

 私は自他共に認めるワーカホリック?で、昨年大学院(博士課程)に通い始めてから環境ががらりと変わったことで、余裕のないぎりぎりの生活が続いていました。仕事、家事、子育て、研究、そしてボランティア活動…と、よくまあこれだけやれるもんだと思うほど、忙しい毎日でした。

 昨年の終わりにストレスがたまりすぎて体調を壊した後、無理するのはやめよう、と決めました。すぐには変えられないものの、仕事のやり方そのものを見直して、疲れすぎないように調整するようになりました。

 お世話になっている大学院の先生の、「無理しないでもっと自分を大切にして」という一言と、子供の存在が、この決断を促してくれました。

 今までは、きつい仕事の後で気分転換をするのにゲームやTVに頼っていました。確かに何も考えないでぼーっとするには良かったのですが、逆にうつ気味になることがありました。

 ”ほぼ日…”を利用するようになって、
「ここしばらく腹の底から笑った経験が全然なかったなあ」
と気がつきました。笑うことって、こころとからだの健康には大切なことなのに…

 ストレスの研究やっている本人がストレスでカラダを壊すなんて、しゃれにならないですよね。

 よくよく考えると、最近は「しなければならない」ことが増えてしまって、本当に楽しんで何かをやるとか、自然に笑顔が出てくるような経験だとか、そういうものから大分遠ざかっていたように思います。

 昨日、うつ度判定(SDS)をやってみたら、結構高い点数(52点)でした。私自身も”がんばりすぎてるなー”とは感じていましたが、このままだと本当にやばい、と改めて思いました。


 

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どうしようもないけれど

@nifty:NEWS@nifty:教諭の差別的発言で女児不登校、校長が自殺…奈良(読売新聞)

 @niftyにアクセスして真っ先に目についた記事。
驚きを通り越して、悲しいやら腹立たしいやら。

 校長先生も対応に追われて疲労が極限に達していたと考えるなら、自殺は突発的なことだったかもしれませんが…。

 残された家族が抱えるであろう苦しみや無念さも相当なものだと思いますし、不登校になっている女の子がこの事を知り、差別発言による傷に加えてさらに大きな傷を負うことになるかもしれないと考えると、何かしないではいられないような気持ちになります。

 起きてしまった自殺についてはもうどうしようもないんだけど、女の子が適切な援助や理解を受けられるように祈るしかないですね。

 このニュースに「何かが違う」違和感と行き場のない怒りを感じているのは私だけかなあ…。

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初心を忘れないように…

 Slient Voicesを立ち上げてもうすぐ2ヶ月になります。

 ブログ初心者の私はあれこれ失敗もしながらどうにかやってきました。
慣れてくると次第に、このブログをどう利用すればいいのか段々と見えてきて、いろいろと書き込みたいことが増えてきました。

 このあたりで、少し整理をしてみようと思い、もう一度これまでの書き込みを見直してみました。

 それで気がついたのですが、やはりこのブログを立ち上げた最初の目的からそれないようにした方がいいのではないかと思いました。

 それでlivedoor BlogEvergreenという別のブログを立ち上げました。それを、カウンセラーとしてよりむしろ主婦として、かつての化学専門職として興味があることや日常生活で経験する小さなできごとを載せるために、使うことにしました。

 Slient Voicesは、心理専門サイトとして、これからもいろんな情報発信をしていこうと思います。たくさんの方に、私がカウンセラーとしての経験から学んだことや、私が持っているPTSDという問題について、伝えていきたいと思います。また、Evergreenの方は私にとって、ちょっと肩の力を抜いて生きられるようにするための場所として使いたいです。

 これまでSilent Voicesを見て下さっているみなさま、本当にありがとうございます。
では、これからもよろしくお願いします。

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神から与えられた「試し」として障害をとらえる

 "Challenged"の続きです。

 以前に、全盲でピアノ教室を開いているある男性の話を聞いたときに、引用された聖書の言葉があります。

 「イエスが道をとおっておられるとき、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねていった、『先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか』イエスは答えられた、『本人が罪をおかしたのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」(ヨハネによる福音書9章1~3:引用は日本聖書教会発行の聖書から)

 キリスト教では、障害を「神から与えられた試し」と考えます。同時に、人は神から何らかの能力や才能を与えられており、試しを乗り越える道が備えられていると信じています。このことでたいそう印象に残っているのは、三浦綾子さんの次の言葉です。

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「人間は生きているかぎり、いかなる人間であっても使命が与えられている」
という言葉がある。人からはどんなにつまらなく見られる人間にも、神にとっては廃品的存在という人間はいない。どんなに頭が悪くても、どんなに体が虚弱でも、足がなくても手がなくても、耳が聞こえなくても、口がきけなくても、目が見えなくても、精神薄弱児でも、重度身体障害者でも、神にとって、廃物的存在の人間は一人もいない。みんな何らかの尊い使命が与えられているのです。
 どんなに嘘つきでも、非行的な性格でも、盗癖があっても、残忍でも、親不孝でも、冷酷でも、神にとっては捨つべき存在というものはない。その誰に対しても、神は人間として新しく生きる力を与えつつあるのです。

 「人間の原点」 三浦綾子著 PHP研究所より引用
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 欧米社会にも無宗教な人は結構いるので、全部がそうだとは言いませんが、福祉政策の背後に、人の価値に対する独特な考え方があるのは確かなようです。歴史的に異なる民族・文化の集まりである欧米では、違いを受け入れ神の前に等しい価値を持つ人間として、一人一人の尊厳を守ろうとする流れはあるように思います。

 このような人間観は、障害児に対する教育政策などにもとても反映されているのですが、必ずしも宗教的な色合いは濃くありません。しかし、障害を特別視せず、一人の人間として全人的なかかわりをもとうとする流れの裏には、やはり何らかの共通した価値観があるのかもしれない、と思うことがあります。

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"Challenged"とは

カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル:【用語】チャレンジド=挑戦を受けた人(1)

http://blog.livedoor.jp/kaipapa2shin/tb.cgi/129656

 カイパパさんのところから見つけてきた記事です。

私がどうのこうのいう事ではないんですが、私自身が留学中に経験したことを少し書きたいなと思いました。

 リハビリテーション心理学、というのがあって、心身に障害をもつ方々のリハビリテーションに関わるいろんな心理的な援助や問題などについて勉強したことがありました。その時に始めて知ったのが、障害者の事を"The Challenged Person"というのが今の主流だということ。"Disabled"と何故言わないのかと尋ねたら、病気などで失われた機能については今でも"disability"という言葉を使うのだそうだが、この言葉には、機能がずっと失われたままというニュアンスがあり、リハビリなどで回復の可能性がある場合にはなるべく使わないようにしている、したがって"Disabled"だとその人そのものの可能性を否定していると受け止められかねないので今は使われなくなってきている、とはっきりと言われました。

 しかし、ここで使われる"Challenged"という言葉の意味は、課題や難しい問題に取り組むという意味合いもあるんでしょうが、どちらかというと、「日常生活に何らかの困難を抱えている」という意味が強いようです。つまり、"The Challenged Person"とは「病気や先天的な障害のため、困難な問題を抱えている人」と言うことになるんでしょうね。多分これが基本的な意味だと思います。

 しかし、そういった障害を持ちながらも前向きに生きようとしている人にとっては、当然前者の意味合いが強くなるんだと思います。それはそれで、すばらしいことだと思います。

 リハビリに限って言うなら、一度失われた機能を完全に取り戻せることはまれで、中にはあまりに厳しいリハビリに途中であきらめる人もいるし、リハビリをやっても回復が望めなかった人もいます。がんばれない人たちをはげましたり、機能回復が難しい場合に今ある限られた能力の中でできることを見つけられるようにお助けするのが、リハビリテーション心理学という分野です。

 アメリカ人の中にも後ろ向きな人はたくさんいるので、必ずしも全てに当てはまるわけではありませんが、とおことわりをした上でさらに話をすすめるなら、"Challenged"という言葉の背景には、ポジティブに加えてOptimism(楽観的な考え)があるように思います。私は以前に、多発性硬化症という、神経性の難病(治療法もまだちゃんと確立していません)をもつ女性のカウンセリングをやったことがあります。進行性の病気で症状が悪化すると生命を維持できなくなります。この女性は、セカンドオピニオンをしっかりとりながら、最新の治療を積極的に受けており、インターフェロンの注射の副作用や発熱、関節の痛み、神経痛などと「うまくつきあいながら」今もアメリカ南部で元気に過ごしています。彼女は私に「医学が進んでいつか治療法が見つかるかもしれないし、そうでなくても苦しみながらでも今のままなんとかやっていけると思っている」と言ってました。最初からそう思っていたわけではありません。子供たちが小さかった頃は、もうだめになるのではと何度も考えたそうです。納得いく治療を受けるため、数カ所の病院をめぐり、信頼できる医者を捜すまでは、苦労したと言います。そのなかで少しずつ、できることとできないことが分かっていったそうです。彼女の楽観的な態度は、その過程で養われていったようです。

 おもしろいことに、私が出会った"The Challenged Person"の中には、あまりがんばりすぎない人たちもいました。できないことはできない、だから力を貸してくれ、とはっきり言い、その一方でできることについては熱心に取り組む人たちで、休むときにはしっかり休み、どちらかというと自然体で、あまり障害を意識させないところがあったように思います。がむしゃらというよりは、与えられた環境の中でいかに自分らしく生きるかを常に考えているような感じがしました。その一人は、「できないことは仕方ないが、できると思ったことについては自分の中にできない壁を作らないようにしている」と言ってました。

 もしかしたら、こういった態度が、"Challenging"な人生を生み出しているのかもしれませんね。

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誰のための治療か

@niftyからの記事です。

解雇恐れ糖尿病症状隠す名古屋(共同通信)

 名古屋市で昨年8月、糖尿病治療のため意識障害を起こしてミキサー車を暴走させ、歩行者2人を死亡、1人に軽傷を負わせたとして、業務上過失致死傷罪に問われた運転手伊藤実友希被告(29)の初公判が16日、名古屋地裁であり、伊藤被告は「間違いありません」と起訴事実を認めた。検察側冒頭陳述によると、伊藤被告は事故前、解雇を恐れ、意識障害の症状を会社側に隠していたという。

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 糖尿病の治療に使われるお薬は、急激な血糖の減少を起こすことがあり、意識障害などの危険な副作用をもたらすことがあります。

 そういう人を、こんな危険な業務につかせていいんでしょうか?答えはNo、です。
まず、自分自身の命が危ない。しかもそれで事故を起こして人が2人も亡くなっているわけですから、なおさらです。

 きちんと病状を把握し、適切な治療を受けること、また、病状を考慮した職場の配置や仕事内容の検討、これらは本人のためだけでなく、会社のためであり、こういった危険と隣り合わせの仕事の場合は、社会の安全のためではないんでしょうかねぇ。

 

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A Thousand Winds:千の風になって

 book2.bmp 「千の風になって」 新井 満 講談社 \1,000


 タイトルの本は、新聞広告で知り、昨日いきつけの本屋さんで買いました。

 買ってすぐ、お昼ご飯を食べに入ったおそば屋さんで読みました。

 作者は分からず、わずか12行の短い詩。(私が読んだのは英文の方です。)

 1度目、読んで涙がじわっと出てきました。本を閉じてご飯を食べながらも涙が止まりませんでした。

 2度目は、食事が終わった後で読みました。泣いてしまいました。

 3度目は、大学院でのゼミが終わった後、アパートに戻って読みました。やっぱり涙が出てきました。

 その詩を読んで思い出したのは、18年前に病気で亡くなった父親のこと。葬式の間もその後も、一滴も涙が出なかった私。時間が経つほどに風化しそうな父との思い出…なのにこの短い詩を読んだときに、無理して忘れようとしなくていい、泣きたいときは泣いていいんだと感じました。

 "I am a thousand winds that blow" (和訳:私は千の風になって あの大きな空を吹き渡っています)という一行を見て真っ先に思い出したのは、雲一つ無い青い空。

 ツアーコンダクターだった父親は、年に数回は海外旅行の添乗をしていました。

 父は大の飛行機好きで、いつもうれしそうに仕事の話をしていました。

 小さい頃に何度か、手を引かれ、飛行場へ一緒に行きました。コックピットの中を見せてもらいました。

 体調が悪いにもかかわらず、当時導入されたばかりのB-767に乗るためだけに、東京へ出張し入院を1日遅らせた父。最後まで空を飛ぶ夢を持ち続けていた人でした。

 本を読んで何度も泣いた後、残ったのは暖かくて、静かな気持ちでした。

 父親は、そう遠くへ行ったわけではない、と気がついたのです。

 月3往復の飛行機通学をする今、38,000フィート(約11,000メートル)上空を飛んでいると、時々父親の事を思い出します。下に雲を見ながら青空の中を飛んでいると、父の存在がもっと身近になるのです。確かに彼は空の上を風が駆けめぐるように自由に飛んでいるような気がします。

 その時から、空や吹く風や、すべてのものが違って感じられるようになりました。

 空を飛べばいつでも父に会える、そう思うと、私はとても癒され一人ではないと強く感じます。

 
  空ゆかば いつでも会える かの父に


 

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出身都道府県別女性の性格

 さっきふらふらと@niftyをさまよっていたら、
出身地域別・女性の性格 というサイトを発見しました。

 う~ん、当たってるかなあ?皆さんはどうでしょう。

 ちなみに男性のはないけど、ちらちら載ってますので、男性の方も一読の価値あるかも。

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Unspoken words:言いたいけど言えないこと

 国民の休日にかかわらず、今日は子供の学校で学習発表会がありました。
キリスト教の教会が経営母体の私立校で、こんな風に祝日によく学校行事が重なり、次の日皆が忙しくしているときにタイミング悪く子供は代休だったりします。

 学校では、そろそろ次年度PTA役員決めであるとか、卒業式の事が話題になっています。どっちにしても、今年の11月まではセミ単身赴任の私には、学校行事のお手伝いはできませんけどね。学校の特徴というか、協力的な父母が多いので、少し申し訳ない気もします。

 何故かという明らかな理由は分からないものの、私はこの父母の集団がたいそう苦手。今日もできることなら行きたくないと、何度か配偶者に訴えました。しかし、学習発表会だけで帰れるわけもなく、(PTA総会の出席もとるんで)結局は最後までいる羽目になり、皆が学級懇談会へ移動する合間に、子供を連れてさっさと帰りました。

 同じ学年の父母とも、配偶者は結構親しくしているようですが、私は全然だめです。

 一緒にいても共通の話題が探せず、すぐに会話が途切れてしまいます。

 運動会など、どうしても行かなければならない行事以外は、学校に極力行かない私ですが、それでもやむを得ず2年間はPTA役員も引き受けました。それなりにやれたとは思いますが、どうしても他の父母とは仲良くなれませんでした。

 多分、子育てであるとか学校教育に対する考え方の違いもあるんでしょうが、それなら大学院の他の学生さんたちや先生方の方がよほど個性的で合わなさそうだけど、居づらいと感じたことはなく、それならこれが理由ではないということ。

 学校に限らず父母の集団の中にいると、普段よりよけいに表情のこわばった、がちがちの私がいます。このために、ADHD・LDの親の会にもまだ参加を渋っているくらいです。

 おそらく、親としての資質や子供についての比べられることを非常に恐れているんだと思います。

 配偶者は、向こうが嫌ってるんじゃなくて、私が壁を作っているだけだ、とよく口にします。

 それは間違ってはいないと思うんですが、同じ場所にいるだけで苦しくなって逃げたくなります。その分、寂しくて仕方ない時も少なくありません。だけど、どうしても、子供に関する悩みや家族の事など、他の父母たちが自然に話している事が言えません。比べられるよりは、何も言わずに黙っていたいです。だけど、言わなければ人との交流も始まらないので、これが幼稚園から数えて8年間ずっとジレンマに感じてきたことです。

 


 

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久しぶりの青空

 朝起きると、久しぶりに晴れていました。
ここんとこずっと、曇りや雨が続いていたので、洗濯物も部屋干しか乾燥機頼みでした。
今日は良く乾いてくれることでしょう。この天気、しばらく続いてくれるといいな。

 天気の話をすると、Sanaが大体どのあたりに住んでいるか分かる人もいるかも。

 今日はこれから夕方まで仕事がぎっしり詰まっています。その合間に本屋さんへ行って、今年の秋からの講義に使う教科書を選んできます。

 ついでに、目をつけている本を何冊か買ってこようと思ってます。

 その本はここでも紹介したいです。(これは予告?)

 天気がいいと、ちょっとだけ気持ちも晴れますね。(^o^)


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後ろ向きなワタシ

 今日はお仕事上、少し行き違いなどがあって、私はひどく落ち込んでいます。

 行き違いとかトラブルそのものは、常日頃からありがちなこと。だから、出来事そのものがどうだというわけではないです。

 たとえば、カウンセラーやっていて、あなたとは合いそうもないから、他の人に代えてくれ、といわれることもたまにあります。相性があるので、仕方ないですし、他の人とうまくやれてそれで問題解決に向かえばそれにこしたことはありません。

 そして、ごくまれに、話しもしないうちから、怖い感じがするからあなたから受けたくありません、と言われることも。外見で判断されるのも悲しいですが、これも本人が怖いと言っているのだから仕方ありません。

 滅多にないことですが、私の方がどうしても患者さんとウマが合わないで、他のカウンセラーを紹介することもあり得ます。

 人との関係第一のお仕事ですもん。こういったことには多少慣れてきました。

 しかし、患者さんとの関係よりも、病院のスタッフとこじれると時には進退問題に関わるので、出来る限り食い違いや誤解を避けようと神経を使っています。いろんな考えの人たちの集まりなので仲良くできなくても、せめて嫌われなければやっていけるだろう、といつも思います。

 ところが、どんなに平和と協調を心がけても、私も人としての弱さやうっかりミスがあるので、どこかで他のスタッフに迷惑を掛けたり嫌な思いをさせてしまいます。謝ってそこで終わりになればいいのですが、中にはしっかり覚えられて後からちくちく言われることもあります。

 出来事自体は、例えばインテーク(初回面接)が少々長かったとか、大事な事を聞き忘れたとか、病院の休診日のことを聞いていなくて、その日に予約を入れてしまい、後から調整が大変だったとか、小さなミスや勘違いによるものが大半です。当然私に非があるので、ひたすらすみません、と謝るだけです。

 だけど、そういうミスのあと、これ以上迷惑をかけてはいけないとよけいに緊張するため、逆にミスを誘い、それが周りを怒らせてしまったことも、何度かありました。私としては、決してわざと困らせようとか邪魔しようとしているわけではないのですが、病院には週に2日しか勤務しないので、状況が飲み込めなかったり、やり方が分からなかったりするので、小さなトラブルを100%避けるのは不可能に近い気がします。

 OL時代から、私は強い口調で威圧的な態度を示す人が苦手なのですが、そういう人たちは逆に自分のやっていることに自信を持っていたりするので、私のような生き方が不器用な人間はすごく目立って気に入らないらしく、何度か八つ当たりの対象になってきたりしました。以前に勤務した病院の先生が同じような感じの人で、何を言われてもじっと我慢をしていたら、円形脱毛症になり、その病院を辞めた後も、私に対する口での攻撃がしばらく絶えなかったため仕事上大きな支障をきたしたことがあったのです。

 今回は、そういう嫌な過去をふまえて、自分の言葉や態度に気を遣い、なるべく相手に合わせる事を心がけてきて、無理も多少は受け入れなが働いてきたつもりだったのですが、やっぱり嫌われる人には嫌われるんですね。結局いつも強い人の前では言いたいことも飲み込んでしまい、手も足も出さないのは、10数年前と全然変わっていないのが、とてもいやでしかたないです。嫌われたくないのに、嫌われると困る人に嫌われるのも、やっぱり子供の時からあまり変わっていないようです。

 私という存在自体が気に入らない人もいるだろうし…もしそうなら、逆にもういいや、と開き直った方がいいのかな?

 臨床心理士はあきらめようかな…もうこれまでで大分無理してきたし。ここまでやれただけでももういいか。

 それでも、威圧的な人が苦手という課題は残るんですね。(>_<;) はぁ~。

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The Most Impressive Massage (最も印象的だった言葉)

 相変わらず風邪で、喉も鼻もやられています。
おかげで日帰り出張からは無事に帰ってきましたが、機内の強い乾燥と寒気のダブルパンチに会い、耳鼻科に駆け込むことになりそうです。

 カイパパさんが紹介しておられた記事を読ませていただいて、桜井さんの「偶然に期待する」という言葉がとても印象的でした。その時に、ふと、私が全然関係ない分野から心理に専門を変える大きなきっかけとなったあるメッセージを思い出して、これをぜひ紹介したいと思いました。これは、私が留学中に授業で使われたある教科書の隅に書かれていた文で、別に読まなければならないものでもありませんでした。その教科書とは、いわゆる精神疾患(こころの病気)を詳しく解説したもので、その一例として実際の患者さんにインタビューした記事を、ところどころに載せてあったのです。

 私の目を引いたのは、統合失調症を抱えながら、臨床心理士(しかも博士号を持っている)の仕事をしている男性のインタビューでした。彼は、26歳の時、アメリカ海兵隊の技術職であったその頃に統合失調症を発病し、その後10年間で300日以上の入院を経験し、20年以上経った現在も、時折幻聴などの症状を経験しています。体調に波があるので、調子の良い期間に彼は大学院へ進学して心理学博士号を取り、今も体調と相談しながら仕事を続けています。その方が、ご自分の発病から今現在に至るまでの病歴について語ったあと、最後にこんなことを言ったのです。

 英文で読める方のために、まず原文を紹介し、そのあと日本語訳を紹介します。日本語では伝わらない部分があるかもしれませんが、ご了承下さい。

 "During the time between breakdowns, I have earned a PhD in psychology and worked as a psychologist and administrator in a large state hospital, helping other people with schizophrenia who have not learned to cope as well as I have. I very much like being around the patients because I can see a lot of myself in each of them. We have common experience. Whether the patients might be a 'mystic Abyssinian warrior' or hiding from 'the Green Gang' whether they are hearing voices or cannot button their shirts properly, I remember 'being there'myself, and I know it is possible to return from that 'parallel reality' that one enters through the mechanism of psychosis."

(統合失調症の)再発と再発の合間に、私は心理学で博士号を得て、心理士及び管理職として(オハイオ)州立病院に勤務し、私のように病気とうまくやっていく術をまだ身につけていない統合失調症の患者さんを援助しています。私は患者さんのそばにいることが本当に大好きです。なぜなら私は彼ら一人一人の中に、私自身の姿をたくさん見出す事ができるからです。私たちは共通の経験を持っています。彼らは「魔術を操るアビシニアンの戦士」か、あるいは「緑のギャングからの逃亡者」であるかもしれませんし、幻聴が聞こえたりあるいはシャツのボタンときちんととめられないかもしれませんが、私は私自身もまた、”そこにいる(同じところに存在している)”ことを思い出します。そして精神病のメカニズムが生み出す「パラレルな現実*」から抜け出すことも可能であると、私は知っているのです。

 * 現実のようで現実でないという意味。

 さて、このメッセージは、誰かに向けて発せられたものかどうかは分かりません。また教科書ですから、読まなければ気がつかないままで、そんなのあったっけ?という学生さん達の方が圧倒的に多かったかもしれません。

 しかし私は、この文を読んだときに、体中に電流が走るような感覚を味わいました。それは、人は自ら大きな問題を抱えながらでも、誰かのためにここまでやれるのか、ということを知った衝撃とも言えるかもしれません。統合失調症の症状の辛さを味わいながらも、目標からそれない、意志の強さもすごいもんだ、と感心させられたことを、今もはっきりと覚えています。

 この方は、もしかしたら、私たちのような専門職のタマゴさん達に、統合失調症について理解を深めてほしいと思っているかもしれませんし、おそらく周囲の無理解や壁に泣いたこともたくさんあったかもしれません。しかし、この「誰かに向けられたわけではないかもしれない」メッセージは、私の人生を根っこから変えるほど強い影響を与えました。

 同じメッセージを100人が読んだとしても、100人の受け止め方はそれぞれに違うと思います。上のメッセージも、こんな病気を持ちながら仕事がちゃんとやれるのかと疑問を挟む人も、必ずでてくると思います。しかし、100人のうちの一人でもこの文を読んで何かを感じ、生き方を見直すきっかけになるなら、投げる価値が十分にあるように感じます。

 どのようなメッセージでも、ありのままを、ストレートに伝え、後は受け取り側に任せるということも、大切なのかもしれません。もちろん、自分の使っている言葉や態度に十分に気をつけながら、ですけど。

 

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喉と鼻はつながっている

 風邪を引いてしまい、ブログの更新もストップしています。
インフルエンザではなさそう(そうだったら先に熱から出るから)ですが、鼻と喉を同時にやられているため、においも味もあまり分かりません。

 それなのに、明日日帰りで出張なんです。(>_<;)
困ったなあ…。

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ゴジラの皮

 先週病院での仕事中のお話です。

 お昼休みに食堂でご飯を食べていたら、同じ病院の職員が、キュウリの漬け物が盛られた皿を、私の座っていたテーブルに置いてくれました。

 そのキュウリはまるごと一本つけられ、切られていないためかなりの大きさでした。

 私が一本もらおうかどうしようか迷っていると、横に座っていた別の職員が、「これ、ゴジラの皮みたいね」と一言。

 なるほど、キュウリの表面はしわしわで、色もそれっぽい感じでした。

 これを聞いた周りの人も私も思わず笑ってしまいました。その後、ゴジラのどのあたりの皮なのかで話が盛り上がり、背中の皮だろうと結論がでたところで、終わりになりました。この一言がとても強烈だったのか、その日は仕事中も時々思い出し笑いをしてしまいました。

 ところが、あれから数日経っているのに、この「ゴジラの皮」という言葉がアタマから離れず、今日も大学の研究会参加のためバスに乗っている間にまた思い出してしまい、笑いをこらえるのに必死でした。

 それで、話すと少し楽になるかなと思って、ここに載せました。

 子供にキュウリの漬け物を食べさせるときのネタにしようかと考えています。


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ちょっぴりうらやましいと思うこと

 このブログを立ち上げた初期に、カイパパさんを通してパパのちからこぶというサイトの存在を知りました。

 これまで、私は何度か地元のADHD/LDの親の会主催の講演会などに参加をしましたが、やはり圧倒的に母親の参加が多く、お父さんたちの姿はちらほら。高機能自閉症プラスPTSDと診断された2人の患者さんの家族とお会いした時も、やはりお母さんだけしか現れませんでした。

 やっぱりお父さんの子育て参加は難しいのかなあ…と思っていた頃に、自閉症のお子さんたちを育てるために奮闘しているお父さんたちのがんばりを知り、私はとても感動しました。こういうお父さんたちが、私の地元でも出てきてくれたらと思ったりします。

 さて、私のところはどうかというと、ぴょろがADHDであることを、5年くらい前から機会がある度に配偶者に説明しつづけているのですが、気のせいだとシャットアウトされつづけ、やっと話を聞いてくれるようになった今でも、ADHDは努力すればどうにかなると信じているようで、さらに配偶者自らがADHDなんですが、それはどうやっても受け入れられないようです。(.>_<;)

 不注意や落ち着きのなさ、ころころと変わる興味や集中力の欠如など、ADHDの特徴をもろに持っている2人ですが、ぴょろの問題行動を配偶者は時々頭ごなしに怒るので、子供の猛反発を買うのです。小さいときは、泣いて私のところに助けを求めてきたぴょろも、次第に大きくなって周りの事を冷静に見られるようになると、「父ちゃんも同じ事やっているのに何で自分だけ怒られるの?」と逆に向かっていくようになっています。(これでまた、親の言うことを聞かない、と怒られるんですが…)

 そういう状況でずっとやっていると、子育て上どうしても意見の食い違いが大きくなるので、これがまたけんかの火種になってしまうことも珍しくありません。やはり、両親が子供の状態について、共通の見解を持っているのといないのでは全然違うと思います。

 配偶者は、自分が子育てに参加しなくても、専門職の私がいるから大丈夫と妙に楽天的なのですが、これからぴょろが思春期まっただ中になれば私の声もとどきにくくなる、だから父親の存在が大事だし、ADHDについてもう少し理解がほしい、とこれからも訴え続けるつもりです。

 配偶者がすんなりと聞き入れるとは思えませんが、こうやって地道に「教育」していくしかないでしょうね。この点では、つぼみパパさんたちをパートナーに持つお母さんたちがちょっぴりうらやましく思います。

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PTSDの記事:共同通信から

 @niftyのニュースからの引用です。

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イラクで米兵19人自殺(共同通信)
 【ニューヨーク共同】2日発売の米誌ニューズウィーク最新号によると、イラク戦争に従軍した米軍兵士のうち、昨年中に19人が自殺していたことが、米陸軍の派遣した調査団の報告書で分かった。報告書は近く政府に提出される。 報告書は、戦闘によるストレスと心的外傷後ストレス障害(PTSD)が兵士の間に広がっていると指摘。
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 長い期間、強いストレスにさらされたり、ショックな出来事に遭遇した後に、様々な身体的・精神的な症状がでるのがPTSD。2度の世界大戦中に従軍した兵士が帰還後に示した独特の精神症状、として発表され、その後研究が進んで戦争以外の様々な外傷体験のある人にも見られる症状として認められ、今のような名前になったわけです。

 従軍のように(英語では"duty"というんですが)、強いストレスが避けられない状況が長引くと、次第にうつ状態になりやすくなり、その結果として自殺のリスクが跳ね上がることになります。

 この記事を読むと、従軍の過酷さが理解できると思います。

 PTSDがひどい場合は、帰還後治療を受けても完全には社会復帰できないこともあるんです。戦争は、人の心身をぼろぼろにします。早い平和的解決を望むところです。

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ごめんなさい

 みなさまに少々お詫びを。

 昨日の真夜中にUPした「お願い」という記事を書いたとき、私は不安がピークに達していました。実家に行っていないにもかかわらず、急激な環境(気温)の変化や仕事上のストレスが原因なのか、2日続けてパニック発作を起こし、しかも仕事の都合であと2,3日は家族の元へ戻れないので、すごく落ち込みました。

 PTSDの症状から完全に抜け切れていない私は、昨日一人でいるといろんな事を思い出したり考えたりしてしまい、マイナス面しか見えないようになっていたんだと思います。書き込みのことが非常に気になり、カウンセラーは相談者の秘密をばらしてると思う人がいたらどうしようと心配になって、先の記事を書いてしまったわけです。

 しかし冷静になってよく考えてみると、例えばこころの問題について書いた記事も、カウンセラーの仕事上のお約束を守った上で紹介したものなので、みなさんに見ていただくには問題がないじゃないか、ということに気がつきました。

 転載・引用の件も、だめと言うつもりはありません。それでもできればコメントなりメールなりで、「載せましたよー」という一言をいただけると、私自身が安心するんです。リンクもそうです。できればこちらが一方的に情報を紹介するのでなく、双方向のやりとりをしたいという希望もあるからです。そういう意味ではトラックバックはありがたいサービスなんですね。(注:Sanaはトラックバックの事をいまいち分かっていないかもしれない…)

 そういうわけで、なんだかヘンな記事を載せてしまって、本当にすみません。

 たまにSanaはこんな感じで心配性の面が出てきます。極力無いように気をつけますが、心配性が高じてのヘンな発言は全くないと言い切る自信はありません。今回の「お願い」の記事は、心配性の証として、そのままにしておきたいと思います。

 今は、昨日よりは落ち着いています。明日は、研究者仲間のドクターのところに相談に行く予定なので、パニック発作も多分収まることでしょう。

 今回の事で、いろんな方がサイトを訪ね、記事を見てくださっていることを感じました。最初、このブログを始めたときは、細々とやっていければいい、という気持だったので、どんな人たちを対象に記事を書いたらいいのかも漠然としていました。これまで1ヶ月少し続けてきて、今までいただいたコメントに励まされたり、暖かい気持ちを感じたりしたことや、逆に考えされられたりしたことに、感謝の気持ちでいっぱいです。

 これからも足下をしっかりと見据えつつ、マイペースでやっていくつもりです。
よろしくおつきあい下さい。

 

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カウンセラーのカウンセラー

 カウンセラーにも悩みは生じるので、相談が必要になるときが必ずあります。そして仕事上の悩みや疑問については、お互いに助け合い解決しようという仕組みがあるのです。

 基本的には、「スーパーバイザー」と呼ばれる、カウンセラーのカウンセラーのような人と直接会い、気になる患者さんや相談者のことなどを相談し、指導を受けるのが一番です。しかし、相手も同業者で忙しい方々ですから、顔を合わせての話し合いは、そんなに頻繁にはできないのが現状です。また、緊急な対応が必要な時など、場合によっては次の約束を待たずに連絡をとらなければならないことも、たまに起こります。

 相手が仕事中だと電話連絡が取れなかったりするので、パソコンができる相手だと連絡は大抵メールになります。メールを使って問題を話し合ったり、解決策を探したりという感じです。最近ではさらにTV電話やカメラ付きPCなどで相手の顔を画面に見ながらの相談をやっている仲間も増えてきているようです。

 さて、先ほどの記事で臨床編や子供の臨床に書き込んでいるお話についての説明をしましたが、こことは別に、専門家だけで運営しているサイトというのがあり、そこでは厳重な管理のもと、担当している患者さんや相談者について、その対応や介入方針などの話し合いや、情報交換などを行っています。それとは別に、限られたメンバーで作るメーリングリストを利用して、診断や治療についての意見の交換がなされることもあります。

 メーリングリストやサイトは、登録してい同業者との交流を深める役割も果たしてくれているように思います。また、特に対応の難しいケースや、珍しい病気のケースについての相談では、多くのベテラン同業者からの意見やアドバイスを得られる利点もあります。また患者が他の地域に引っ越すような場合に、転居先の地域でもカウンセリングが受けられるように、地元のカウンセラーや臨床心理士を探さなければならない時、いち早く情報がもらえます。ただし、患者さんあるいは相談者の個人情報に関しては、細心の注意を払いながらの書き込みであることは変わりありません。

 便利さとリスクの両方のバランスをとりながら、スーパーバイザーや同業者同士でのコミュニケーションを通して仕事上最善を尽くせるように、もっとインターネットを上手に使いこなせるようになるのが今の私の目標です。


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お願い

 このブログを始める時に、前もって断るべきことだったのですが、

Silent Viocesは、私の個人的な経験も含めて、心の問題について、できるだけ多くの方々にお伝えしたいと始めたブログです。専門用語などをできるだけ使わずわかりやすいように、心がけるように努力しています(まだ足りないのは承知ですが)。

 今までにココロジー(臨床編)や子供の発達障害のカテゴリーで紹介したお話の登場人物については、個人情報の部分を多少変えてあるか(もちろん、大筋では実際にあった出来事であることにかわりはありません)、そうでなければ本人の許可をもらって、公表したくない部分を除いてご紹介しています。基本的に、このブログに書き込んでいる記事を、多くの皆さんに見ていただけるようにすると同時に、相談者のプライバシー保護に対するカウンセラーとしての義務を果たすためです。私自身の事については、素直にお伝えするようにしていますが、それでも専門職としての責任もあるので、できるだけ誤解やトラブルを避けるために、少しだけお願いをしたいことがあります。

 ひとつは、「ココロジー(臨床編)」と「子供の発達障害」の2つのカテゴリーに分類される記事に限り、無断での転載・引用をお断りします。必ず、転載・引用の旨を、メールにてお知らせください。転載には、トラックバックも含まれます。また、リンクを張る時も、一言お知らせください。これは、上に記した通りの理由によります。よほどのことがない限りは、だめと言うことはないと思いますが、私としては、念のためにどのようなサイトがここの記事を利用あるいはリンクを張ってくださるのか、把握しておきたいからでもあります。

 心理学と一言で言っても、いろんな理論や考え方があり、こころの病気についても、一定した見解が得られていないものもあります。ですから、同業者の間で、一般に認められている事以外は、個人的な意見であることをお断りするようにしています。今後は少しずつ、同業者の関連サイトなど、可能な限りいろんな視点からお伝えできるようにしたいと思います。

 本当に、多くの方が、まだブログ初心者の私のサイトを見てくださっている事を、心から感謝しています。これからもまだまだ未完成なSanaとSlient Voicesをよろしくお願いします。

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自閉症スペクトラムに関心をもつようになったのは…

 自閉症スペクトラムに関心をもつようになったのは、だいぶ前のことです。

 比較的近くに住んでいる、配偶者の友達が、子供のことで聞きたいからと電話をかけてきました。当時5歳で、早期教育で有名な幼稚園に通わせていたら、幼稚園に行きたくないと言いはじめたのでどう対応したらいいかという相談でした。

 その子に始めて会ったとき、多分この子は自閉症か関連する発達障害があるだろうなあ、と思ったのですが、当時私はまだ大学院(修士)で勉強中で、そうだと言い切る自信がなく、結局言わないでいました。しかし、話し言葉の明らかな遅れがあったので、この地域では唯一の専門医を紹介し、そこで勧められて言葉のトレーニングを受けたようでした。両親が、早期教育がこの子のプレッシャーになっていたかもしれないと考えて幼稚園をかえたことで、この問題はいったん収束をみたようでした。

 小学校に入学してしばらくは、顔を合わせても子供の事ではごく普通の話題しかでませんでした。しかし、3年生になる少し前に、もう一度電話をもらいました。学校では友達もいて楽しそうにしているが、やはり何か問題があるような気がするので、もしそうならはっきりさせたいと、私に子供の様子がどうなのか専門家としての意見を聞きたいという内容でした。知的にはほぼ平均で、成績も平均的と、あまり目立った問題はなさそうにも見えるのですが、やはり数年前と意見は変わらず、慎重に両親からの発育状況の聞き取りや子供の様子を観察し、友達とそのダンナの2人に、おそらく(高機能)自閉症だろう、と告げました。彼らはある程度覚悟をしていたようで、むしろ子供の事を理解しようと努力している事は明らかでした。言葉は幾分改善していたものの、やはり明らかな遅れがありました。自閉症について、一般的な説明や学校・家庭での対応などについて話し合い、これから先も、何かあればいつでも相談にのる体制でいることを伝えました。

 数年間の彼らとの家族ぐるみのつきあいの中で、自閉症スペクトラムに対する理解を深める機会が与えられ、それと同時にこのような発達障害を持つ子供たちの状態をきちんと把握し適切な援助を行える専門家の層の薄さを痛感しました。専門医も少なく、数ヶ月待ちの状態で、子供たちだけでなく彼らを支える家族のケアのできる専門家も決して多くはありません。彼らが障害を持ちながらも自分らしく成長していくには、足りないものはまだまだあるけれど、微力ながらできることをやっていくしかないのかな、とも思いました。

 この出来事に前後して、性被害やひどいいじめの経験があり、高機能自閉症を持つ複数の患者さんの心理療法を引き受ける事になりました。彼らとの関わりの中でさらに、自閉症の正確な診断の難しさや、自閉症に特有な情報処理機能の障害が、PTSDの症状をさらに複雑にすることなどを学びました。

 そのような経験が、あまりはっきりと意識しないながらも、自閉症スペクトラムへの関心を高めてくれたと思います。この2年で、たくさんの自閉症関連の専門書や文献に目を通しましたが、それだけでなく、発達障害をもつ方々やその家族と直接接する機会があることによって、次第にサポート体制の方向性が見えてきた気もします。


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タフな週末

 今週は、木曜日から忙しくなりました。ゼミでの発表、病院での仕事も夜までぎっしりだったので、メールを見る暇もなく、やっと一息つけると思ったら夜中になってました。

 その間に、新種のウイルスが入り込んだと見られる怪しいメールも届いていましたし、ゆっくりTVを見る暇もなく、新聞もないので、浦島太郎になった気分。

 病院までは、バス・電車を乗り継ぐと1時間30分、直行バスを使うと2時間かかります。

 つまり病院を夕方7時に出ても、アパートにたどり着くのは9時過ぎということ。カウンセリングの仕事は1日6名を超えるとくたくたになるので、バスや電車の中では疲れ果てて爆睡するか、仕事の事を考えないように、GBAや携帯のゲームをするかのどちらかで時間をつぶします。

 今回は少々いつもよりタフな週末だったので、早く自宅に戻りたい~!と、配偶者に愚痴ったところ、「どうせ来週のアタマには帰ってくるんでしょう」と切り替えされました。自宅だと、疲れても猫や子供がそばにいるだけでいやされる気がするんですが、それがないのは寂しいです。今からゆっくり寝れば、それなりに元気にはなれるでしょうが、家族の存在はやはり大きいと言わざるを得ません。

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